菊地成孔の映画蔓延促進法 第1回後編
菊地成孔の『イン・ザ・ハイツ』評(後編):脚本構造におけるリアルとファンタジーの合成
『イン・ザ・ハイツ』の脚本構造/リアルサイド
こうして本来、水と油である、というより、歴史が<混ぜるな危険>という結界を張ってきた両者の合成物は、一体どんなストーリー展開で、ハッピーエンディングへのラインを引いたか?最高値では相殺関係にまで達する両者の、まずはリアルサイドに着目してみよう。
13曲目、停電によって冷房が止まり、熱射病のようにグッタリしたハイツの住民たちに、第一脇役陣の筆頭である美容院のオーナー、ダニエラが「ラティーノが暑さにやられるなんてどうかしてる!」と一喝を入れて始まる、パン・カリビアンな(4カ国の国旗が掲げられる)サンバチューン「カルナヴァル・デル・バリオ」の中で、ダニエラ、そしてキョカと共に美容室のトライアングルチームを形成するカルラ(ステファニー・ベアトリス好演。彼女はダニエラの美容院がブロンクスに移転する際、ワシントンハイツの住民たちに車乗から手を振り「みんな! 愛してる! 大好きよ!」と手を振りながら去ってゆくシーンで、『フェリーニのアマルコルド』へのオマージュを引き受ける)は、各々が自分の出自を歌い上げるシーンにおいて、画面中央に躍り出て「あたしはウィスコンシンで生まれたの、でも、ママはドミニカでキューバ、パパはチリでプエルトリコ、だからあたしはチリ・ドミ・キュリカン、の結局ウィスコンシン娘」と、そのダンスの躍動とは裏腹に、「あーめんどくさい」というキュートな苦笑の後に、大群舞に戻る。当人をして、ヒスパニックの民族問題は、斯様に複雑である。
一口に移民といっても、20世紀初頭には合衆国から市民権を得たプエルトリコ、メキシコ系は、少なくとも法的には移民ではない。つまり、ダブル・カップル型の作劇の中、片方のヒロインである、ニーナとケビン親子には不法移民という問題は生じない(リン=マニュエル・ミランダもだ)。
しかし、「ニューヨーカーであるプエルトリカン」を意味する「ヌエバヨール」が、「夢の大陸に移住したものの、差別と貧困に苦しんだ歴史」の象徴として、コミューンの母であるアブエラ(おばあちゃん。の意)が亡くなる、三途の川の送り歌である11曲目、「パシエンシア・イ・フェ(忍耐と信仰)」で、表現主義的に掲げられる(この、ヌエバヨール第一世代の挫折と恐怖、それを信仰と労働で乗り越える生命力、その最期を歌う、幻想的で幾何学的なシーンは『オール・ザット・ジャズ』のクライマックス、涅槃のショーシーンと、「死」への迫真性において双肩を成すと言えるだろう)。移民ではなく移住者の歌に、当作最大の艱難辛苦が表現される。
一方、61年の独裁政権の崩壊後、雇用を求めて移民として合衆国に住む人口が爆発的に増えたドミニカ系、ならびに、オバマとバチカンとカストロ弟の電撃的なホットラインにより、国交こそ回復したものの、基本的にはキューバ危機以降の冷戦サステインが残っているキューバ系は基本移民であり、不法移民の問題から逃れられない。(ダブル・カップル型とはいえ)本作の歴とした主人公ウスナビのボデガ(コーヒー、食料品、宝くじまで扱う、食料雑貨店)で働く少年、ソニーと、ウスナビの恋人であるバネッサにはこの問題が降りかかっている。作劇のクライマックス形成に「不法移民であるソニーが大学に入れるかどうか?」が組み込まれてゆく。
この補助線が引けているかいないかだけでも、本作の作劇への解像度はかなり違う。スタンフォード大学に合格(不法移民ではないので)することで、ハイツの英雄視されるニーナ(レスリー・グレイス演。若い頃のジャネット・ジャクソン似)は、スタンフォード入学に際し、恋人のベニー(コーリー・ホーキンズ演。キング牧師、ジョン・レジェンド系の顔相と、登場人物中最もガタイが良くスーツルックが多い)と別れ、本作で再会し、最終的にはまた別れる。しかし、父の世代にはあった筈のヒスパニック・コミューンが、現在のスタンフォードでは失われており、彼女は被差別と孤独の末に退学して街に戻ろうとするが、「どのツラ下げて帰ってきたんだ」と、自らの自己否定スパイラルに陥り、中編に記した、「クラーベの保持」を一度中断させる英国調のワルツ、3曲目の「ブリーズ」をソロで歌う。
そんな彼女が、移民型リベラルとして、移民の子供たちの教育施設からの拒絶に対するデモに、不法移民の少年であるソニーと参加する軽いシーンと、前述、「ソニーが大学に進学できるか?」というクライマックス、そして、彼女が復学を決定し、卒業後、アクティヴィストを志す(ので、ベニーと再び別れる)という結末は、中編ラストにある通り、ヒスパニック、アジア系の中でもエリート揃いのスタッフでないと描けなかったリアルの側面と言えるだろう。
こうしたリアリティの横溢(ここに記したものは、氷山の一角に過ぎない。当作は「ヒスパニック問題百科事典」のクオンティティがある)は、しかし、移民問題というリアリティと直結すると同時並行で、すれ違ってゆく。