『イカゲーム』はなぜ世界中の人々の心を掴んだのか デスゲームとしての新たなアプローチ

 デスゲームジャンルでは、主人公をあくまでも弱者の味方側に置いたり、一方的に巻き込まれる設定にすることで、倫理的な問題をカバーする場合が少なくない。これによって、われわれは人道に外れたゲームに参加して勝利する主人公に、一定の共感を持って傍観できるということになる。しかし、『イカゲーム』のアプローチは、その逆をいっている。つまり、主人公がゲームで勝つことの後ろめたさそのものを強調し、ドラマの主軸にすることで、デスゲームにつきまとう矛盾した問題をそのままテーマとして描いているのである。

 イ・ジョンジェが演じる、本作の主人公ギフンは、他の参加者たちと同様、経済的に困窮し、現実のどうにもならない事情に耐えかねるかたちで、生死を賭けたゲームに身を投じていく。本シリーズは、まずこのようなキャラクターの背景描写に力を入れていく。デスゲームジャンルにしては悠長だと感じるところがあるが、考えてみれば、ドラマが基本的に人間を描くものである以上、背景の描写を最低限にとどめるアプローチの方が、むしろ“性急”過ぎる描き方だったのではないか。そんな本シリーズの腰の座った態度こそが、このジャンルに必要なものだったように感じられるのだ。

 日本でも親しまれている、韓国の昔からの“子どもの遊び”を応用した本シリーズのゲームそのものは、非常に単純明快であり、主人公が複雑な奇策を繰り出すような余地が用意されていないのも興味深い点だ。ここではそれを描くのではなく、参加者の心理状態そのものに迫っていく。そして勝ち進むごとにゲームの中身は、参加者を非人道的な行為の共犯者に仕立てあげていく。

 死屍累々のなかで、ごくわずかな人間が膨大な金額を手にするゲーム。それは、現代の弱肉強食の資本主義経済が行き着く、どん詰まりの世界であり、そこで生き残る強者は間接的に、あるいは直接的に罪を背負った存在となっていく。この辛辣な経済格差の表現は、真相が語られるエピソードにおいて、チャールズ・ディケンズの小説を引用しながら、古典的な文学性をもとり込もうとする。目指すものは、あくまで社会の歪んだ姿を明らかにすることであり、そこで生きる人間の存在を描くことだ。

 象徴的なのは、困窮する外国人労働者が、さらに搾取されるという構造を描いている部分である。この外国人が登場する試みは、日本でも『カイジ』シリーズの原作漫画にて行われていることではあるが、『カイジ』では、あくまでも主人公と共闘する弱者として描かれ、主人公の正当性を補強する役割を担っていたのに対し、本作ではその逆の描かれ方をしているのである。作品のなかの女性の描写も含め、自国のイメージにとって都合の悪い加害性をも痛烈に表現している、“身を切る姿勢”があるという点で、本シリーズは政治的な面でも、世界中で共感を持って受け入れやすいバランスとなっている。

 監督を務め、オリジナル脚本を書いたファン・ドンヒョクは、福祉施設で行われた児童への性虐待を描いた『トガニ 幼き瞳の告発』(2011年)の監督でもある。弱者が犠牲になり続ける社会の歪んだ構図をテーマにしているという意味において、本シリーズでも見せるファン監督の強い問題意識を含んだ風刺的な立ち位置は、「デスゲーム」の本来持っていたポテンシャルを、これまでのどの作品よりも正確につかみ出すことになったといえよう。

 ここまで述べた通り、本シリーズはこれまでの多くのデスゲーム作品を吸収し、それらの弱点を強みに変えて、骨太なドラマを用意することで、ジャンルの決定版ともいえる地位を獲得する世界的な一作となった。今後は、この『イカゲーム』が一つの大きな基準となって、デスゲームのジャンルは判断され、後発の作品は苦心惨憺することになるのだろう。

 だが、日本のクリエイターたちにとって、これは不幸ではない。映像分野において、このジャンルに国境の壁を越える大きな可能性があることが分かったいま、一つの大きな道標として、そして作品づくりの参考として、『イカゲーム』を利用することができるのである。同時に、世界中のクリエイターもまた、このジャンルに積極的に挑戦し、おそらくはハリウッドも動くことになるはずだ。「デスゲーム」に期待を抱く観客、視聴者にとってこの状況は、いまだかつてないほどにエキサイティングだといえるだろう。

■Netflixオリジナルシリーズ『イカゲーム』
Netflixにて全話独占配信

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