『おかえりモネ』は亮をどう救うのか 百音の“分身”あかりを登場させた意図を読み解く

「ファンタスティック」

 『おかえりモネ』(NHK総合)第105回で龍己(藤竜也)が言った、どことなく丸みを帯びた、優しい言葉が、物語全体を包み込む。亜哉子(鈴木京香)が、今は亡き姑である雅代(竹下景子)のことを「思い出すのは笑っている顔ばっかり」と言ったことに対しての言葉だ。

 雅代の人間性がいかに高かったか、そして、介護を経て、雅代の「笑っている顔だけ」を思い出す亜哉子が、いかにしなやかな強さを持ち合わせているか。そんな思いを全て含めた「ファンタスティック」という言葉には、安達奈緒子が描く朝ドラ『おかえりモネ』における、人生そのもの、人間そのものが示されているように思う。

 ヒロイン・百音(清原果耶)が、東京を離れ、地元である宮城県気仙沼沖・亀島に帰ってきたところから始まった第20・21週は、亮(永瀬廉)や未知(蒔田彩珠)、亜哉子ら、地元に根付き「踏ん張ってなんとかやってきた人たち」が内に秘め続けていた、何年経っても癒えることのない心の傷と、東日本大震災の記憶があらわになった週だった。

 そしてそんな人々の心を癒すように、画面上に姿を現わすことは遂になかった東京編のキーパーソン、汐見湯の「宇田川さん」が描いた「海」のような絵が、百音によって持ち込まれた。それは、東京の部屋で一人寝ている百音を、宇田川が銭湯を掃除する時の水の音が、どこか海に似た懐かしい響きとなって包み込んでいた時に似て、優しい。「人は傷つく必要なんかない。どんな人も、いるだけでいい」と言っていた菜津(マイコ)の言葉とともに、姿を現わさない彼は、心の傷を表には出そうとしない、明るくて「しぶとい」人々が行き交う場所の中心に、佇んでいる。

 本作の登場人物たち、そして彼女たちが住む地域の姿は、実に多面的・多角的に描かれている。だから、第78回で未知が亮をかばって言った「そこだけ見て、勝手に決めつけないで」という台詞が視聴者に忠告してくれているように、そのことを念頭に置いて見なければならない。第40回で同級生たちそれぞれの生き方を肯定した上で「俺らは俺らの好き勝手やって生きてく」と言っていた亮は、地元のために戻ってきた百音を「きれいごと」だと突き放す。

 「明るいし、元気だし、何より楽しそう」な「地元」は、被災地ゆえに、急速に変化せざるを得なかった場所でもある。それと同時に、百音がしばしば投げかけられる「なんで帰ってきちゃったの?」に象徴される、よそ者/一度出ていった者を歓迎しつつ、本当の意味では受け入れない排他的雰囲気を持ち合わせてもいる。大学生・一花(茅島みずき)が、それを察して去ることを決意したように、外部からきた人間が本当の意味で受け入れられるには、まだ時間がかかりそうだ。

 そんな中、まるで百音の分身のような少女・あかり(伊東蒼)が、百音の前に現れた。長いこと離れていた地元に帰ってきたばかりという点だけでなく、赤いマフラー姿は震災当時の百音の姿と重なり、内向的な、それでいて意志の強い雰囲気もまた共通している。さらにはやりたいことが見つからず「どうして医者になったのか」と菅波(坂口健太郎)に聞いていた登米編の百音と同じく、今度はあかりが百音に気象予報士になった理由を問いかけることで、百音にかつての自分を思い起こさせる。

 朝ドラ終盤において、ヒロインの分身が目の前に現れることで、ヒロインに今までの日々を振り返らせるという手法はよくある。『おちょやん』においてはヒロイン・千代(杉咲花)の子供時代を演じた毎田暖乃が、父親と継母の孫という役柄で再登場を果たしたし、『なつぞら』ではヒロイン・なつ(広瀬すず)の妹(清原果耶が演じた)の娘が、なつの子供時代を演じた粟野咲莉によって演じられた。本作においては子役時代が回想という形でしか存在しないため、違う演者によって演じられたわけであるが、映画『湯を沸かすほどの熱い愛』や、近々だと『ひきこもり先生』(NHK総合)などで強烈な印象を残す伊東蒼が、実に自然に「ヒロインの分身」となると共に、亜哉子とのエピソードを通して「助けられることを通して、逆に相手の心を救っている」理想的な関係性を体現するという重要な役割を担っていた。

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