『ジュラシック・パーク』は“最も現実的な恐竜映画”として作られた 虚構を真実に変えた奇跡
これまでの恐竜映画の多くがストップモーションで作られてきた。そのため、先の監督候補にそれを得意とするティム・バートンの名が上がっていたのは必然的なのだ。スピルバーグも、最初は全恐竜をロボットで作ろうと考え業界トップのスタン・ウィンストンに依頼した。しかし9トンのアニマトロニクスの恐竜を走らせたり、飛び上がらせたりすることは不可能だ。そこで、CGアニメーターの出番となってくる。制作側は当時のCG技術で滑らかな動きを表現するのは難しいのではないかと、訝しんでいた。ところが、会社を首になりかけても、ボスの言うことを聞かなくても「それができる」と証明した男スティーヴ・“スパズ”・ウィリアムズらの働きによってスピルバーグが求めていた不可能的なビジョンは可能となる。これについて詳しくはNetflixオリジナルシリーズ『ボクらを作った映画たち』でウィリアムズ本人を含む製作関係者が当時のことを振り返っている。
完成度の高いCG、そして実際に役者が手に触れられるアニマトロニクスが映画の重要な見せ場で用いられていることで、視覚的な真実味は一層強まった。それに加え、本作が“誰の視点”で描かれているかも重要である。というのも、もともと本作はクライトンの最初のアイデアでは子供たちの視点で話が進んでいたのだ。しかしそれでは子供騙しの域を超えることが難しい。小さな子が「お母さん、恐竜がいたんだよ」と言っても信じてもらえないのと同じで、物語の語り手に説得力がないからだ。だからこそ、大人の視点で描かれる必要があった。特に、登場人物の中で最も論理的な思考を持つマルコム博士というキャラクターを忍ばせ、彼が恐竜の存在を信じざるを得ない様子を描くことでさらに現実味を持たせているのだ。ちなみに、マルコム博士は作者であるクライトンの代弁者的な立ち位置にもある。
かといって、本作に子供の存在は必要不可欠。スピルバーグの映画には必ずと言っても良いほど子供が登場する。だからこそ制作側は、「スピルバーグだから」という理由以上に、登場すべき真っ当な理由が必要だと感じた。そして脚本のデヴィッド・コープは、子供に「他のキャラクターを成長させる」という存在意義を与えたのである。実は原作の登場人物は、映画よりも魅力に乏しく、特にアラン・グラント(サム・ニール)とエリー・サトラー(ローラ・ダーン)は面白みに欠けるとコープは考えていた。そこで彼らが科学者としてではなく人間として成長する過程を、グラントに子供嫌い、サトラーに子供好きという対なる設定を与えたうえで描いたのである。最初は同じ空間にいるだけでも嫌だったのに、T-レックスに襲われているティムとレックスを自らの危険を顧みずに救いに行くグラント。その後、子供たちを守り抜くことで物語の主人公としてグラント自身がちゃんと成長していくという、丁寧な物語に収まっているのだ。
このようにキャラクターの魅力や論理性を追求して作られた脚本も、本作の現実味に影響を与えた。しかし、なんといっても主役は恐竜だ。そのビジュアルの美しさ、繊細な動きは床下やカメラの外で何人もの技師が汗水垂らして動かした賜物である。なにより、最も本作にリアリティを持たせたのは、この恐竜たちの行動なのだ。時々『ジュラシック・パーク』は“モンスターパニック映画”に括られてしまう。しかし、スピルバーグは何より本作を怪物映画にしたくないと考えていた。そこに描かれるべきは怪物ではなく、あくまで動物としての凶暴さや恐怖なのである。彼らの行動は全て生存本能にともなった、自然の摂理でしかないことを、スピルバーグは丁寧に映そうとした。そのため「恐竜=恐怖」にならないよう、ラプトルなどの肉食恐竜のシーンでのスリルと、ブラキオサウルスといった草食恐竜と心を通わせるシーンでメリハリをつけているのだ。
ただ、そこにあるのは弱肉強食という自然だけ。科学の力がどうこうなんて、恐竜の知ったことではない。なんとなく食べられる人間に同情できず、恐竜側を応援していた幼少期の自分も、そういう「動物だから仕方ない、彼らも食ってかなきゃいけないから」という自然の摂理を理解していたのかもしれない。ただ、大人になってからネドリーが単なる小悪党から会社に正当な報酬を受けていないブラック社員だったことを理解し、根本的な部分で彼に少し同情してしまう。
映画史に残るT-レックスVSラプトルのアイコニックなクライマックスシーンでも、弱肉強食の構図は強調されている。もともとここは脚本上、グラントがラプトルを巨大な固定クレーンで、展示されているT-レックスの頭蓋骨の化石の下まで誘導し、押し潰して殺すというシーンだった。しかし、すでに撮影が始まっていたにも関わらず、スピルバーグはそれを化石ではなく生身のT-レックスにした。この素晴らしい変更によって、作品のテーマの一つでもある「人間は大きな自然に対して一切無力である」ことが最後に改めて掲げられることになった。もちろんそういう意図もありつつ、やはり映画の顔だし、立派なT-レックスを最後に拝みたいという観客心理を考慮したり、ILMのCGの出来映えが想定より遥かによかったり、という背景もあったらしい。
『ジュラシック・パーク』において、私にはもう一つ好きなテーマがある。それは「全てを完璧にすることはできない」というメッセージだ。物語同様、セット自体もあえて建設途中にして未完成のジュラシック・パークが舞台となっている本作。だから、恐竜も、パークのシステムや警備、従業員も完璧にコントロールすることは不可能だ。全て不完全なのである。しかし、それでも完成に向けて物語のキャラクターはその後も野望を捨てない。そして映画を作り上げた数多のスタッフも、不可能だと思われたことを可能にした。1992年8月下旬から始まった撮影は、同年11月30日に終了。なんとスケジュールを12日も余らせていたのだ。普通、アニマトロニクスなどロボットを使うとなれば必ず不具合などが発生して、スケジュール遅延するもの。しかし、スタン・ウィンストンのチームは素晴らしい仕事をし、その常識を覆したのである。
幼い頃、VHSのテープが擦り切れるほど毎日のように観ていた『ジュラシック・パーク』。たとえ映された恐竜が“虚構”でも、それを生み出した人々の努力と起こした奇跡は“現実”であり、それが虚構を“真実”に変える力を持っていることを、教わった。そして行き過ぎた力(科学技術)を持って、人間が神の真似事をすることで報いる代償も。何年経っても色褪せることがない、そうした本作が内包するあらゆる物語とメッセージは、女王T-レックスの咆哮とともに心に響き続ける。
■放送情報
『ジュラシック・パーク』
日本テレビ系にて、9月3日(金)21:00~22:54放送
監督:スティーヴン・スピルバーグ
製作:キャスリーン・ケネディ、ジェラルド・R・モーレン
脚本:マイケル・クライトン、デイヴィッド・コープ
原作:マイケル・クライトン
出演:サム・ニール、ローラ・ダーン、ジェフ・ゴールドブラム、リチャード・アッテンボロー、B・D・ウォン
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