「荘子itは電気蝶の夢から覚めるが」vol.1

荘子itによる批評連載スタート 第1回:『Mank/マンク』から“名が持つ力“を考える

2.一文字違いの“Kane”と“Mank”の階級交差空想(cross-class fantasy)

 Netflixを開いて、『Mank』の開始19分30秒過ぎ〜を再生してみよう。女の叫び声で起床したマンクは、ひどい二日酔いだ。叫び声の所在へ向けてフラフラと歩き出す。再び女の叫び声。辿り着いたのは西部劇(?)の撮影現場で、叫び声の主は女優のマリオンだった。1927年に『ジャズ・シンガー』が公開されて数年、いまだ映画はサイレントからトーキーへの移行期で、この現場で撮られているのも、どうやらサイレント映画のようだから、現場から離れた屋内で眠っていたマンクを起こすほどのマリオンの叫び声が録音されて劇場の観客に届くことはない。むろんサイレント映画の演技でも口パクとは限らないが、それにしてもそんな大きな声で叫ぶ必要はないだろう。マリオン曰く、「パパのアイディア」だそうだ。「パパ」とは、マリオンを愛人として囲っている大資産家ウィリアム・ハーストのことだ。ハーストの指示で、マリオンは今のうちから「トーキーに出る準備」をさせられているらしい(註:1)。

 この、観客が決して聴くことのない叫び声でマンクは「起床」し、偶然にも撮影現場を訪れることになったわけだ。自明かつ必然とされてきた映画史に隠された裏側の物語に焦点を当てる本作を象徴するシーンといえるだろう。とにかくこの偶然の出来事を通して、相反する二人に思えるハーストとハーマンは出会い、あろうことか意気投合して親しい交流が始まる。より正確に言えば、権力者ハーストが、物怖じしない皮肉屋のハーマンを気に入って可愛がるようになったということで、それは非対称的権力関係を甘んじて受け入れたうえでの蜜月であり、ハーマン・マンキーウィッツは「オルガン弾きのモンキー」として飼われ始めるに過ぎない。だが、この階級交差体験が、やがて「史上最高の映画」の称号を得る『市民ケーン』の物語をマンクに書かせるのだった。

 ある視点から、『市民ケーン』は、資産家ケーンという虚構のキャラクターを通じて、現実のハーストの実情を暴いた告発映画と目されてきた(註:2)。事実、現実のハーストは気に入らず圧力をかけて映画の興行を妨害した。また、『Mank』は、映画史においてオーソン・ウェルズの功績として知られてきた『市民ケーン』が、実はハーマン・マンキーウィッツの単独執筆によって生まれたものだと告発したポーリン・ケール著『スキャンダルの祝祭』を下敷きにしている。後に、この本における「ウェルズはほぼ一切脚本に関わらずマンクが一人で書き上げた」というケールの行き過ぎた主張は、より実証的なかたちで否定されている。

  しかし、むろんこの二つの映画は単に「尊大な権力者を糾弾する」に留まる作品ではない。その側面もあるにせよ、『市民ケーン』及び『Mank』は、丁寧に読み解けば一方からの断罪的な告発映画ではないことが分かる。『スキャンダルの祝祭』においてさえ、「ウェルズとケーン、そしてマンク自身がよく似ている」ことが指摘されているように、彼らの関係は、(少なくともマンクからみて)自他の境界が溶け合っているようだ。コインの裏表のような二者が根底で共鳴する関係性は様々な文学作品、例えば、『Mank』の劇中で(史実でも)ウェルズが映画化しようとしていたコンラッドの『闇の奥』におけるマーロウとクルツや、フィッツジェラルドの『華麗なるギャッツビー』におけるニックとギャッツビー、さらに階級構造としては反転するがケルアックの『路上』におけるサルとディーンなどに通じる。また、『闇の奥』と同様にウェルズが長年映画化しようとしてついに実現できなかった『ドン・キホーテ』や、これまた『Mank』の劇中で引用される『白鯨』のような、「究極の片思い(=パラノイア)」の文学は、前述のような想像的領域における同一化をしたとて、厳然たる両者の差異は埋まらないという事実を示すものであるとともに、それらがマンクの側から饒舌に語られることで、やはりハーマンとハースト(≒ウェルズ)という裏表の関係にある二者の共鳴を示唆している。“Mank”と“Kane”はそれぞれ一文字違いで、両者の余剰である二文字を組み合わせると“Me”になる。

 また、『Mank』がこのような「文学的な」想像力が隅々まで浸透した映画であることは、少なくとも『スキャンダルの祝祭』発刊当時の(現代ですら根強い)映画批評における「作家主義」が、「監督」(ウェルズ)に芸術性の拠り所を求めたのに対し、「脚本家」(マンク)の貢献を主張していることと切り離せない。フランソワ・トリュフォーの「詩的リアリズム批判」や、ヌーヴェル・ヴァーグ以降の映画批評や蓮實重彦的表層批評の文脈からみると、『Mank』作中でハーマンがマンクに対して言った、「これからはトーキーの時代だから文学が分かる脚本家が必要だ」という言葉はあまりに安直で「純映画的」ではないように思われる。だが、インターネットや、『Mank』を制作/配信するNetflix以降の時代の映像文化全体を見回してみれば、事態はそれほど単純ではないだろう。映画を映画館での上映やテレビの放映に合わせて観る時代から遠く離れて、PCやスマホのブラウザ上で、YouTuber/VTuber的な投稿映像や、リアリティショーやSNSにおける、筋書き(脚本)はないが、その代わり極めて直接的な欲望を刺激するエンターテインメントが、現実の人間をエージェントとして自然増殖する状況において、前述のヌーヴェル・ヴァーグ以降の「映画批評」や、ロラン・バルト的な「作者の死」を謳い上げ、表層やテクストそのものに徹底的に留まる態度(ヌーヴェル・ヴァーグ以降の「作家主義」も単なる現実の「作者」とは異なる、作品内在的な批評から遡行的に見出されるような「作家」を仮構する営為ではある)に、かつてのような現状批判力はない。現実が追いついて(行き過ぎて)しまったのだ。

 『Mank』のクライマックスでは、マンクが自らの名を脚本家としてクレジットすることを要求してウェルズと対峙するシーンが、ハースト邸のパーティでマンクがハーマンと対峙した回想シーンと並行して描かれる。最終的にマンクは『市民ケーン』のクレジットを獲得し、アカデミー脚本賞を得る。マンクが唯一積極的に匿名の「オルガン弾きのモンキー」であることをやめて、映画史に「ハーマン・マンキーウィッツ」という名を作家として残したことは、彼の単なる功名心以上のものとして受け止める必要があるだろう。『Mank』劇中にも登場する映画プロデューサーのアーヴィング・タルバーグは、ウェルズに似て「若き天才(The Boy Wonder)」の名をほしいままにしたが、自らが手がけた映画にほとんどクレジットされていない。マンクとは打って変わって、「自らに与えるクレジット=信用になんの価値もない」と語る彼は、すでに充分すぎるほど「成功者」だったからそう言えたのだ。ここにも厳然たる非対称性があることは言うまでもない。対して、「ハーマン・マンキーウィッツ」や「マンク」という名が、映画史の置石として鎮座するに至ったことには極めて重要な意義がある。それは明晰な論理を越えた力である。そのことを語るために、次節では「固有名」についての議論を参照する。

※註1:直前のシークエンス冒頭のテロップに従えば、このシーンも1930年である。現実では、マリオンは女優としてこの時点で既にトーキー映画に出演しているはずなので辻褄が合わず、この設定は創作ということになる(むろん本作は、『スキャンダルの祝祭』の内容の是非を越えて、そもそも作劇上多くの部分で脚色が加えられている)。寝て起きたことで時代を遡ったと無理やり解釈できなくもないが、タイプライターを模したテロップがないため、本作の演出の原則上(例外はあるが)考えにくいだろう。いずれにせよ、あえてこのやり取りを抽出しその「起床」の意味に注目する本稿の趣旨は変わらない。

※註2:本作を現状の社会情勢に照らし合わせれば、フェイクニュースによる情報戦によって対抗馬を蹴落とし当選する共和党サイドを描くことで、何を批判しているか明白である。ただし、本稿で述べているように、本作は単純な民主党支持路線の告発映画ではない。インタビュー等で伺えるように、フィンチャー自身、いかにハースト達にとってもフェアに描けているかを重視している(参照:David Fincher’s Impossible Eye|THE NEW YORK TIMES)。

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