人間の心と社会の闇を深くえぐる “ワールドクラス”の日本映画となった『すばらしき世界』

 本作では、やっと三上が勤めることのできた介護施設で、ともに働いている青年が他の職員たちから執拗に責められ、いじめを受けているところを目撃する様子が描かれる。三上は衝動的に、その現場に飛び込んで、職員たちを叩き伏せようとしてしまう。

 なぜ、三上はそんな衝動を覚えてしまうのか。それは、被害に遭っている青年が、三上と同じように不器用で、周囲に馴染むことが苦手な存在であるからだろう。もっと言えば、幼少期から家族からの愛情を知らずに育ち、腕っぷしだけを頼りにヤクザの世界に飛び込んで、いつしか世の中全体から“反社(反社会勢力)”として排除される存在となることを経験した三上にとって、目の前で排除されつつある青年はまさに自分自身のように映ったのではないか。

 だが、その気持ちとは裏腹に、三上はその状況を黙認する。そして、その青年を揶揄する同僚に対して、追従すらしてしまう。弱い者を見捨て、面倒を避けて長いものに巻かれる……まさに三上は、この瞬間に、生活を守りリスクを避けるために目の前で起こることを見ないようにする、現代社会の一員になったのだ。しかし、それが目指すべき“普通”の生き方だというのなら、“普通”とは、ひたすら社会から与えられた自分の立場を優先して、あくまでその範囲が定める中でしか、正しく生きられないということなのだろうか。

 三上は、六角精児が演じるスーパーの店長に短慮を諌められた際に、世の中の階級構造について言及している。社会は、権力を持っている者が下の人間を利用することで成り立っているところがある。そこで三上は、「自分は大人しくなんかしていない」と、気を吐いていた。

 弱い者を助けるという考えは、もともとヤクザ社会のなかで「任侠」として理想化されてきた思想でもある。1960年代頃にブームになった任侠映画は、はみ出し者を主人公にしたからこそ持ち得る善性を描いたものだった。だからこそ、その象徴の一人である俳優・高倉健のイメージは、大きな力に追従しようとする政府の動きに反発する、当時の学生運動の旗印ともなったのだ。しかしそんな理想に反して、現実のヤクザは、「シノギ」と呼ばれる賭博、詐欺、売春、覚醒剤など非合法なビジネスを営む存在として、凶悪化していった面がある。

 三上は、ヤクザ社会でおそらくこのような闇のビジネスを経験しながらも、“一匹狼”になることで、一時的に食物連鎖のシステムの外にいることができた。だが、真っ当な社会に参加しようとすると、彼はふたたびその構造の底辺の位置で、強い者に追従することを求められ、さらに自分よりも低い位置にいる者を踏み潰すことすら強いられるのである。それが社会というものなのだとしたら、果たしてそんなものに価値などあるのだろうか。そして、“反社”に組み込まれた者たちは、そんな弱肉強食の社会が無自覚的に送り出してしまった存在だったのではないのか。

 そのような絶望的な世界に光明を与えるのが、台風の日に介護施設の青年が、園に植えたコスモスを助けだそうとする場面である。彼は、あんなにも苛烈な扱いを受けたその日に、それでもなお自分よりも弱いもののことを心配することができる人物だった。もちろん、施設の花壇から花を掘り起こして持ち出したりしたら、後日問題になるのは目に見えている。掘り起こしたことで、むしろ花が台風を生き延びる可能性を奪い、花の寿命を縮めてしまったかもしれない。しかし青年は目の前のコスモスに対して、何かをせずにはいられなかったのだ。世の中に価値があるとするなら、それは誰かが自分以外の者のために優しさを見せる瞬間に発揮されるものなのではないだろうか。それは、自分の生活を待ちながら三上の社会復帰を応援した人々の姿にも重ねられる。

 三上は児童養護施設に育ち、母親が自分を迎えにきた事実があったのかどうかを気にしていた。三上には知り得ないその事実は、彼にとって“世界の意味”を変えてしまうほど大きなものだ。もし、母親が自分を迎えにきてくれるような世界であれば、そこは彼にとって生きるに値する世界になり得たはずである。暴力が幅を利かす世界に身を投じた三上が、それでも自分の能力を使って弱い人を助けてしまうのは、世界には自分以外の者を助けようとする優しさがたしかに存在し、母親もまた自分のことを気にかける人間だったということを、自分自身に言い聞かせようとしていたのではなかったか。だからこそ劇中で三上は、優しさによって掘り起こされた、善意の象徴であるコスモスをしっかりと握りしめたのではないだろうか。

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