『花束みたいな恋をした』は“最後の砦”? “コミュニケーション”を軸に考える近年の恋愛映画
また、私たちを苦しめる恋愛映画が爆誕してしまった。他でもない、『花束みたいな恋をした』だ。あの二人がダメなら、もうダメじゃん。そんなふうに匙を投げて帰り道、歩道のタイルの模様ばかり見て映画館を後にした人は何人いるだろうか。
映画全体に蔓延るカルチャーリファレンスの数々に、この作品が“サブカル恋愛映画”と名付けられてしまっても無理もないと感じる。近年、若者から支持の厚い恋愛映画はこういった雰囲気を孕んだものが多い。そして描写の生々しさと、拗らせた主人公という共通点。『勝手にふるえてろ』や、『寝ても覚めても』、『愛がなんだ』、『劇場』、『生きてるだけで、愛。』。一癖も二癖もある、印象的な恋愛映画を振り返りながら、同じ若年層にヒットしている『花束みたいな恋をした』がその系譜の中で、“最後の砦”のような存在だったことを改めて痛感した。
昨今の恋愛映画で描かれるコミュニケーションの種類と重要性
上で挙げた作品は、大きく2つに分けられる。付き合う前の関係性を描いたものか、付き合った後の関係性を描いたものかだ。『勝手にふるえてろ』は、恋愛経験のない主人公のヨシカ(松岡茉優)が妄想に妄想を重ねながらも一宮(イチ/北村匠海)に想いを募らせ、一方で霧島(ニ/渡辺大知)に好意を持たれる片想い映画であり、『愛がなんだ』は主人公のテルコ(岸井ゆきの)がマモル(成田凌)のことを一方的に好きになり、都合のいい相手になってしまうというのが物語の発端だ。
この2作品は、付き合うまで(付き合えなかった)過程にフォーカスされている。一方で、付き合ってからの関係性に一定期間があるのが、『寝ても覚めても』『生きてるだけで、愛。』『劇場』、そして『花束みたいな恋をした』である。
『寝ても覚めても』は、主人公の朝子(唐田えりか)が麦(東出昌大)という男と恋仲になるも彼が失踪、2年後に彼と瓜二つの男・亮平(東出昌大)と出会い、彼に告白され付き合うが、突如現れた麦と一緒に逃げ出す。しかし、最後はふと我に帰り、亮平の元へと帰っていく。亮平はそんな彼女を一生信じないと許さないが、どことなく二人の関係性が続いていくような気配で物語は終わった。
『劇場』は、劇作家志望の主人公の永田(山崎賢人)が専門学生の沙希(松岡茉優)と出会う。彼女のアパートで同棲を始めるも、永田はヒモ状態になり、彼の負の情緒が、付き合うことになった当初は笑顔が明るかった沙希にも影響を与えるようになる。負い目を感じ沙希を避けるようにした結果二人の心はすれ違い、気がついた時には永田は沙希を失う術しか持ち合わせていなかった。
『生きてるだけで、愛。』では、躁鬱で過眠症の主人公・寧子(趣里)と、3年間付き合って同棲していた津奈木(菅田将暉)の別れまでが描かれる。
恋人になる前と、なってからの関係性の違い。ここに焦点を置きながら上で例にあげた作品をなぞりつつ、いかに『花束みたいな恋をした』という作品が“最後の砦”なのか書きたいと思う。そして、詰まるところ恋愛にとって大切なものはコミュニケーションしかないのだなと、強く感じた。