アニメにおける「映画とは何か」という問い 2020年を振り返るアニメ評論家座談会【後編】

映画とテレビと配信の垣根はもはや存在しない

――また、9月に公開された『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も大きな話題になりましたね。

藤津:リアルサウンドに掲載されていた杉本さんの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のコラムは、すごく同意をしました。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の弱点みたいなところにもすっと触れている点も含めていいなと思って。でも、平常時ではないのにも関わらず、20億を超えるヒットとなったのに、対抗馬が目立ちすぎたのは少しかわいそうです。

『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(c)暁佳奈・京都アニメーション/ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会

杉本:ありがとうございます。この原作は、京都アニメーションの小説レーベル「KAエスマ文庫」から刊行されたもので、京都アニメーションのオリジナル企画と言っていいものだと思いますが、オリジナル企画のアニメ作品が20億を超えるヒットになったというのは、小説企画を公募してそこからオリジナルアニメを作って育てていくという、2010年代の京都アニメーションの事業モデルの正しさが証明されたように思います。

藤津:最近の京アニ作品の中で、特に評価が高い作品ではあったんですけど、そこはうまく期待に応えるお話だったというか、みんなが見たいものというか。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』にどういう感情を求めているかが、すごくうまく消化されていたので。しかも、ufotableと同じく、技術点が異様に高いんですよね。

杉本:技術力も大変高いですし、何より現実を忘れさせてくれるくらいに泣けるんですよね。コロナで大変な時期に大きなカタルシスを提供してくれました。リアルサウンドでも書きましたけど、「泣ける」ことは大切なことだと改めて思いました。

渡邉:僕も映画館で号泣しましたね。僕はメディア論が専門の一つということもあり、手紙と電話とか、メディアのコミュニケーションの違いから読み解くと面白い作品だなと思いました。あとは、これはたぶん誰も指摘しないことだと思いますが、実は同じ2020年に公開された岩井俊二の実写映画『ラストレター』ともテーマが重なるんです。どちらも、「手紙の代筆」が中心になる物語ですから。ちなみに、岩井俊二の映画は、京都アニメーションの映像表現にも影響を与えていると言われていますね。

藤津:要は、電話や電信が出てきて、同期メディアと非同期メディアの話ということですよね。手紙は非同期メディアで、蓋を開くとヴァイオレットの人生がわかるという、映画の仕掛けと連動していました。そこは映画で初めて設定されたテーマなので、面白かったですね。

杉本:TV版10話に登場したアンの孫娘が、アンの手紙を見つけることから物語が始まるわけですが、記憶の忘却に抗うという意味で、手紙はすごく有効なものなのだと再認識しました。今はリアルタイムメディアが強い時代ですが、クラシカルな神の手紙のありがたみが突き詰めて考え抜かれていて、それは今の世の中にも本当な大切なんじゃないかと、深く伝えてくれる、本当に良く練られた作品でした。

『泣きたい私は猫をかぶる』(c) 2020 「泣きたい私は猫をかぶる」製作委員会

藤津:あと、映画でいうと、『魔女見習いをさがして』の佐藤順一監督が手がけた『泣きたい私は猫をかぶる』がNetflixで配信され、その後劇場公開になりました。佐藤監督には東京国際映画祭のアニメ系のマスタークラスに来ていただいたんですが、そこで「映画とは何か」という話が出てきたんです。そこで佐藤監督は「自分としては最終的に、“映画とはこういうものである”というのは虚妄である」という結論を自分で出して作ったという話をされていました。その作品を作っているのであって、映画という抽象概念的なものと向き合って作っているわけではないということですよね。『魔女見習いを探して』は、おそらく意識的に、テレビアニメの『おジャ魔女どれみ』のような演出が入っていたので、いわゆる映画的ではないところも多くある。だけど、それでいいんだと思ったということをお話されていたのが印象的でした。

杉本:それも前編で話が出た、映画とテレビと配信の垣根がもはや存在しないということと繋がりますね。

藤津:そうなんです。40代手前くらいの監督さんたちと座談会をしたときも、そういう意味では、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』はデラックスだけど映画っぽくないところに、みなさんインパクトを受けていて。一方で同時期に、劇場では『TENET テネット』をやっていて、あまりに正反対なものが同じ映画館でかかっていることの面白さ。映画館でかかるということの振り幅の広さ、その中でどういうものを作るかという選択肢の広さみたいなものは、やはり話題に挙がっていました。

杉本:『無限列車編』を映画っぽくないという言い方をされる方、結構いらっしゃいますね。僕はすごく映画っぽいと思ったんですけど。リアルサウンドの連載で列車をキーワードになぜこれが映画的なのを書いたんですが、映画館で見せることをきちんと意識して作られているなと思いました。

藤津:「映画とは何か」的なことですよね。『無限列車編』は僕の中では、引き算が少ないと感じていて、やはり映画は情報量のコントロールで感情をコントロールしてもらいたいと思っているので、映画っぽくはないなと。全部足し算で作っているんですけど、ufotableは音楽も含めて常に足し算なので。『Fate』もすごく足し算的な作り方をしていて、それは決してネガティブなことではないんですが、飽和攻撃みたいなところはあるなと感じています。ただ、トップレベルのデラックスなビジュアルであることは間違いなくて、それはお客さんの期待には答えているのはたしかです。

渡邉:一方で、『キネマ旬報』でインタビュー取材をした『ジョゼと虎と魚たち』のタムラコータロー監督は、掲載された記事にもあるように、逆に「映画にすること」を強く意識して作られたようです。この作品は、既に犬童一心監督による実写映画作品も有名なこともあって、それとの比較からも、取材の時は割と「今回はアニメとしてどう作ったか」というラインで質問を想定してしまっていたんですね。でも、タムラ監督は一貫して「映画を作りたかったんだ」とおっしゃっていました。それには、『おおかみこどもの雨と雪』の助監督として、細田守監督のもとで仕事をした経験が大きかったようです。細田さんはとにかく、「映画にする!」という思いの強い人で、タムラ監督は、それまで別に映画というジャンルにピンと来ていなかったらしいんですけど、細田さんとの仕事の体験が、自分の中の大きな価値転換になったということを強調してらっしゃいました。

藤津:そもそも、画角がシネスコですからね。シネスコは描き慣れている人が少ないので、レイアウトを取るのが大変だったはずなんですけど、そこは、画面設計を担当された川元利浩さんという方が要所要所を押さえているように見えます。僕も実際に映画を観て、ものすごく映画を意識している作品だなと感じました。何を見せるか何を見せないか、何を聞かせて何を聞かせないか、コントロールをすごく効かせようとしているなと。

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