“三国志ファン”が表明したい『新解釈・三國志』への違和感
TVドラマ『勇者ヨシヒコ』シリーズや実写映画『銀魂』シリーズなどを手がけてきた福田雄一が監督と脚本を務め、「三国志」を題材に大泉洋を主演に迎えた『新解釈・三國志』。公開初週では、大ヒット爆進中の『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』に次ぐ興行成績2位にランクインし、3週目でふたたび2位に浮上、5週目でも3位をキープするなど、コロナ禍でも好調な推移を見せていた。だが、その内容についてはかなり辛辣な意見が飛び交っていることも確かだ。ここでは、渦中にある本作『新解釈・三國志』を、三国志ファンでもある筆者が正面から批評していきたい。
“笑い”の限界
中国の天下が三つに分かれていく戦乱の三国時代。その史実を基に大衆的な娯楽物語としてまとめた『三国志演義』(1522年)は、数万、数十万の兵が陣を敷き広大な大地でぶつかり合い、豪傑同士が火花を散らす世界観や、知能に優れた軍師たちが権謀術数を駆使し騙し合いで天下を狙う面白さが楽しまれ、数々の小説や漫画、映画やTVドラマ、ゲーム作品など様々なかたちに姿を変えながら、世界中の人々に長く愛されている。
『新解釈・三國志』は、そんな様々な関連作の中で、全編コメディとして「三国志」の世界を描く映画作品である。その内容は、『三国志演義』の物語における有名な場面をダイジェストのように並べ、福田雄一監督が得意としている“コント風ドラマ”として表現しながら、その合間で歴史研究者に扮した西田敏行が流れを説明していくという構成となっている。
福田雄一監督の映像作品の特徴は、飲み会や楽屋などでの悪ふざけや内輪ノリの掛け合いを主軸としている。その作風は、監督がTVのバラエティー番組を多数手掛けていることにも起因している。「言い方!」「食い気味に話すね!」など、そのときに流行っている言い回しをふんだんに使って会話をつなげていったり、福田雄一作品の常連であるムロツヨシや佐藤二朗がアドリブでトークを繰り広げる。今回は、シリアスな「三国志」という題材とのミスマッチさを楽しませようというのがねらいだ。
興行成績が示しているとおり、このようなバラエティー番組のような笑いを求める観客は少なくないようだ。おそらくは、映画ファンというよりTVや演劇で福田作品に親しんでいる人々が主に観客となっているように思える。『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』同様に、普段映画館に行かない観客が足を運んでくれるというのは、映画業界にとってマイナスにはならないはずだ。個人的にも、そのこと自体は歓迎できるし、“映画らしさが足りない”という理由で、このような作品を排除しようとも思わない。そこから映画の新しい楽しみ方や才能が現れ、映画文化を次のステージに押し上げる可能性もあるからだ。
多くの映画作品は、構図やカメラの動きなどを駆使して、魅力的な“映像”を連続させることで映画独自の価値を作り出している。一方、本作の各場面は、キャストのアドリブや、ひょうきんな演技をする様を、とくに工夫のない構図で映し出す。そこに、キャストのおどけた表情を捉えたアップがたまに挿入されるという趣向だ。とにかく、これが繰り返される。TVのミニ番組(15分枠)であればスナック感覚で楽しめるかもしれないが、その単調なやりとりを連続で2時間近く見せられるのは、かなりつらいものがある。本作を新しい価値観を備えた作品として鑑賞するには、あまりに質が低いというのが、率直な印象だ。
この一つひとつのシーンを退屈なものにしているのは、笑いにおける“創造性の欠如”ではないだろうか。多くの場面でムロツヨシや佐藤二朗は最大限に面白く盛り上げようと、精一杯ひょうきんな姿を見せ、大泉洋が設定されたキャラクターの枠のなかで、うまく受け答えている。そのやりとり自体に中身がまるでないのだ。ここで行われていることは、バラエティ番組のお笑い芸人が作り出す“面白いやりとり”の演技であり模倣ではないのか。そこには新しいムーブメントになり得るような新しい何かが存在せず、“面白いものを見ている”ような雰囲気を感じるだけである。