“三国志ファン”が表明したい『新解釈・三國志』への違和感

「三国志」を知っている人も知らない人も……

 「三国志」を映像作品にするという企画は、これまで困難をきわめてきた。『三国志演義』の内容は長大で、全てを映像作品で表現しようとすれば、膨大な鑑賞時間を要するものになってしまい、中国で手がけられてきたTVドラマのような尺が最低限必要となる。それでもダイジェスト的な内容にならざるを得ず、近年は趙雲や諸葛亮、司馬懿など、「三国志」に登場する人気の武将・軍師を主人公としたスピンオフ風のドラマ企画も出てきている。2008年、2009年に公開された、ジョン・ウー監督の超大作映画『レッドクリフ』2部作は、中国映画としては異例となる約100億円の製作費で撮られたが、その約5時間もの尺で描かれたのは、「三国志」最大規模の戦闘「赤壁の戦い」と、そこに至るまでの流れを描くエピソードのみだった。

 映画の尺の関係で、本作『新解釈・三國志』の内容がダイジェストにならざるを得ないのは当然のことかもしれない。しかし、だからといって話を一部分に区切ったり主人公を変更するなど他の作品が試している方法を選ばず、長い物語のなかの名場面だけを工夫なく並べるような内容にしてしまっているのは、怠慢ではないのか。この内容で、主人公の劉備や武将たちに感情移入することは難しい。西田敏行の解説も大きな概要を説明するものでしかないため、「三国志」の筋を知っている観客でなければ、各シーンの意味合いすら、しっかりと伝わってこないはずだ。

 例えば、劉備の妻である糜(び)夫人が曹操軍に囲まれて井戸に身を投げるシーンをコントのように描いている場面があるが、『三国志演義』の筋を知らなければ、ここの意味は伝わらないのではないだろうか。そして、逆に知っていたとすれば、一人の女性が自殺に追い込まれる展開をギャグにするセンスに違和感を覚えるという問題もある。このように、知っていなければ意味が分からないし、知っていればより不可解に感じられる部分が本作には度々見られるのである。このように、観客が作品の前提を知らなければよく分からない、知っていても乗り切れないという部分が、本作を楽しませることにブレーキをかけてしまっている。

 また、解説パートでは、例えば“孫堅”と“孫権”を、日本語の漢字の読みが同じというだけで「同じ名前」だと言いきってしまうなど、それ自体が信用ならざる内容のため、「三国志」を知らない観客は、これを入り口にしてほしくないという思いも強くある。名前といえば、そもそも大泉洋演じる役名が、「劉備玄徳」なのである。「三国志」をある程度知っている人であれば常識だが、「劉備」というのは姓が“劉”、名が“備”であり、“玄徳”は「字(あざな)」と呼ばれる、名の別称である。字(あざな)は名の代わりに用いるものであるため、「劉備玄徳」という呼び方は名前を2回続けることになってしまうのだ。だが本作では劉備自身が「劉備玄徳!」と、大声で自己紹介してしまっている。同様に、本作に登場する「諸葛亮孔明」も誤った呼び方である。

 これは、「三国志」が日本で楽しまれるようになった当初、小説や漫画作品において見られた間違いだ。知識がまだ浸透していない時代は仕方ないところがあるが、近年「三国志」を題材にした作品では、さすがにこの種の表現を見ることは無くなってきている。そんな状況で堂々と「劉備玄徳」と言っているということは、本作には監修が存在していないか、いたとしても機能していないことが分かる。

 「そんなことは本作のようなコメディ作品においてはたいしたことではない」と考える人もいるだろう。私自身も、“口うるさい三国志ファン”を気取って、時代考証に文句をつけるようなことはしたくない。そもそも、三国時代について残されている歴史的資料は少なく、いま楽しまれている作品群の多くが、後世に描かれた『三国志演義』を題材とした“のちの世の作品”を写しとっているだけなのだ。だから「三国志」をテーマにした作品に正確な考証を求めること自体がナンセンスだともいえる。

 ここで名前の呼び方を問題にしているのは、もっと根本的なところを指摘したいからだ。正確な考証などは望まないものの、いま日本の「三国志」作品の多くが当然クリアーしている、この間違いを本作が犯しているというのは、「三国志」の内容に詳しくないばかりか、たいして興味のない人たちによって本作が製作されていて、さらに中国の歴史や文化に敬意を払っていないということを示してしまっているのである。ならば、なぜ「三国志」を題材にしようと思ったのか。

 近年の邦画では、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズや、『STAND BY ME ドラえもん』シリーズなどに代表されるように、“過去の名作”を別の解釈で作り直すといった企画が増えている。これらの作品では、原作の“泣ける”シーンの比重を最大限に増やしているが、その手法は様々な魅力を持つ原作を、安易に感じられる感動ストーリーの枠に押し込め奉仕させるコンテンツとして、“消費”しているという印象が拭えない。『新解釈・三國志』もまた、このようなイージーな発想から生み出されたものではないのか。だとすれば、原作に対しての敬意の欠如や、映画化に際しての無策さにも納得がいくところだ。

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