ジョージ・クルーニーらしい個性的なSF映画 『ミッドナイト・スカイ』が描く“過酷な未来の姿”

 このような、弱者や自然に対する傲慢な態度によって起きる破壊行為というのは、現代にも共通するどころか、先鋭化された大量消費社会のやみくもな生産活動によって、より深刻な事態が引き起こされているといえよう。大気や大地、水などがさまざまな汚染物質にさらされ、多くの生命が人間の活動によって失われているのは周知の通りであり、その被害は人間たち自身にも及んでいる。本作のような状況は、バイソンの絶滅危機と同じように、そんな人間たちが突き進んでしまった、取り返しのつかない未来を暗示しているといえる。しかし、問題の原因が明確になってすら、自然破壊の波は止まる様子がない。調査で判明している地球温暖化による被害を前にしても、それらをデマだとする資本家や市民が後をたたない。

 本作の背景にあるのは、そんな状況に対する作り手の諦念と、自分をも含めて滅亡へと向かおうとする人類全体の愚かしさに対する失望ではないのか。クルーニー自身が演じる老科学者が、個人的な過去の後悔にさいなまれる姿は、人類自体が自滅の道を歩んでしまったという歴史と連動している。その意味で本作は、苦悩や悲観までをも通り越して、静かな諦めの色を濃く感じる、内省的な設定になっているのである。

 それでもなお、オーガスティンは幼い少女のために、宇宙船のクルーたちのために、精一杯のことをしてやりたいと、病身を奮い起こして最後の奮闘を見せる。それが、ほとんど意味のないわずかな希望であっても、彼はそれを暗い見通しの未来へとつながざるを得ない。それは過去に取り返しのつかない後悔があるからこその、せめてものつぐないなのだ。

 フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、自作の詩のなかで、人類が未来へと進む行為を、湖に浮かんだボートを後ろ向きに漕ぐ人の姿に例えている。人間は未来を見ることはできないが、過去に何が起こったかを知ることができる。自分たちや、過去の人間たちが行ったことを見ることだけが、未来を知るための道しるべとなるのである。本作は、一人の男の後悔と、人類全体の後悔が重ね合わされた、きわめて内省的なSF映画だ。しかし、だからこそ過酷な未来の姿を、見事なリアリティをもって描くことができた作品だといえよう。

 オーガスティンは自然との厳しい戦いの果てに、少女アイリスの表情に美しく薔薇色に映った陽の光を見ることになる。絶望ばかりを経験し、悲観と後悔のなかにあった彼は、そのときにやっと、幸せと希望を感じることになる。その姿は、「まだわれわれには、やれることがある」というメッセージであり、クルーニーが観客へうったえかけたい想いが集約されたイメージであるはずだ。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開・配信情報
Netflix映画『ミッドナイト・スカイ』
一部劇場にて公開中
Netflixにて独占配信中
監督:ジョージ・クルーニー
製作:ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロブ、キース・レッドモン、バード・ドロス、クリフ・ロバーツ
脚本:マーク・L・スミス
出演:ジョージ・クルーニー、フェリシティ・ジョーンズ、デヴィッド・オイェロウォ、デミアン・ビチル、カイル・チャンドラー

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