二階堂ふみ演じる音の生き様から学ぶもの 『エール』が“負の感情”を描き続けた意図

『エール』音の生き様から学ぶもの

 NHK連続テレビ小説『エール』が、先週、歌い手としても一流の演者たちによる、幸せなカーテンコールと共に、最終回を迎えた。特に本編ではその実力を封印していた岩城役のミュージカル俳優・吉原光夫の「イヨマンテの夜」には誰もが驚かされたことだろう。

 第1話が1964年の東京オリンピックの開会式から始まっているように、当初は東京オリンピックの開催を念頭に入れて企画されていただろう、初の週5話構成の朝ドラ。主要登場人物である小山田耕三役の志村けんさんの逝去、新型コロナウイルスの影響により撮影中断・放送休止を余儀なくされるなど、作曲家・古関裕而の生涯を描いた、波乱万丈な物語同様、未曽有の苦難を乗り越えた、初の試み尽くしの作品となった。

 『エール』は、タイトル通り明るく楽しく、古関裕而の数々の名曲と共に、視聴者に「エール」を送り続けたドラマだった。窪田正孝演じる主人公・小山裕一と、二階堂ふみ演じる裕一の妻・音たち夫婦が常に寄り添い、互いを高め合う姿は、「死」を予感させる海辺を走る最後の最後の場面に至るまで美しく、彼らを取り巻く家族、仲間たちも、彼らの個性、歌声含めて魅力的だった。

 その一方で、他の週との一線を画す、尋常じゃない気迫を感じさせた「戦争」を描いた第18週とそこに至るまでの経緯の描写は凄まじいものだった。裕一や、作詞家である鉄男(中村蒼)が、誰かのことを祈り、その心に寄り添うことで作り上げた曲が、「出征をしたら生きては帰らないという覚悟を感じさせる、国民の戦意を高揚させる素晴らしい」曲・歌詞であると解釈され、多くの人々の心を奮い立たせ、戦地に赴かせることになる。裕一の、常に人の期待に応えようとする優しさ、「音楽で勇気を、エールを」という純粋な思いが、時代のうねりに巻き込まれることによって、いつの間にか歪んだ方向へと向かい、「戦時歌謡の第一人者」に祭り上げられていく恐ろしさが、慰問先で彼がみた光景と、恩師・藤堂(森山直太朗)の死によってより一層痛切に描かれた。

 そして、『エール』の本当の面白さは、ドラマ全体の底抜けの明るさの裏にある、人間の負の感情にあったのではないか。

 このドラマは、一貫して才能とそれに対する嫉妬を、「持つものと持たざるもの」の相克を描いていた。実質の最終話である119話で描かれた、小山田から裕一への手紙には、裕一に対して抱いた嫉妬と贖罪が記されていた。まるで天才・モーツァルトに嫉妬したサリエリである。かつて環(柴咲コウ)は、小山田に対し「先生と同じ目をした芸術家たちをたくさん見ました」と言った。その芸術家たちは、第12週特別編で描かれたパリ時代の環の恋人・嗣人(金子ノブアキ)たちに他ならず、彼の台詞「どんなに喜ぼうとしても、心の奥底から嫉妬が溢れてくる」という言葉は、音と千鶴子(小南満佑子)、文学における梅(森七菜)と同級生の作家・文子(森田想)というライバルたちの感情とも共通する。

 彼らはライバルの中にある、自分にないものに嫉妬する。それは、芸術家たちに限らず、裕一の弟・浩二(佐久本宝)が抱く裕一への長年の嫉妬や、踊り子・志津(堀田真由)が抱いていた裕一に対する屈折した感情、音の姉・吟(松井玲奈)の、音に対する「残酷」発言等、執拗なほど繰り返し描かれたことだ。

 音の人生も決して順風満帆とは言えなかった。裕一と二人で夢を追うはずが、妊娠し、育児に専念することで、裕一に「夢を預けた」まま、いざ夢を追おうとした時には、周囲との実力と思いの差が開いていた。常に舞台の中心に立つことを望み、それが運命のように思えた音は、「人にはみんな役割がある。主役だけでお芝居はできん。必ずそれを支える人がいる」という父・安隆(光石研)の台詞にある、主役を「支える」側の人生だった。

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