「アニメは実写に、実写はアニメになる」第2回
劇場版『鬼滅の刃』を“列車映画”の観点から読む エモーションとモーションの連動が作品の醍醐味に
しかし、今日の映画は、「運動」の魅力だけでは成り立たない。複雑なプロットで感情の起伏を作り上げ、観客の心を楽しませねばならない。動きの興奮に加えて映画は、怒りや悲しみ、笑いや恐怖など様々な感情を喚起するものへと発展していった。加藤幹郎氏の言葉を借りて言うと、「映画はモーション(運動)からエモーション(情動)の双方を描くようになった」のだ。(※3)
感情を表現するために映画にはプロット(物語)を必要とした。そして、本格的なプロットを持った初めてのアメリカ映画は、やはり列車を題材にした『大列車強盗』(1903年)だった。
そうして、今日の映画はモーションとエモーションの混淆が映画の醍醐味となり、その2つを生み出す傍らに列車は常に寄り添っていたのである。
冒頭シーンにみる映画的な絶妙アレンジ
映画史と列車の関係を『無限列車編』の作り手たちが意識したかどうかはわからない。だが本作は、エモーションを創出するための物語とモーションを描く運動が極めて的確に連動しているということは指摘できる。
上述の冒頭シーンを原作漫画と比較してみよう。原作に忠実な映像化だと評価されることが多い本作だが、映画ならではのアレンジも随所に見受けられる。その一つが冒頭の列車の出発と物語の出発のシンクロだ。
原作では、駅に停車している無限列車に炭治郎たちがいそいそと乗り込み、煉獄を見つけ、いくつかの会話をしてから列車が動き出す。列車の出発を待たずして、物語が始まっているわけだ。対して、映画では、炭治郎たちは走り出す列車に飛び乗り、煉獄を見つけるのは列車が走っている最中である。列車と物語が同時に出発しているのだ。
エモーションを描く物語とモーションを描く列車がきちんと手を取り合って動き出している。この細やかなアレンジにufotableの映画への理解の深さを感じる。
ちなみに、冒頭の列車に飛び乗るシークエンスに炭治郎、善逸、伊之助の3人のキャラクターと関係性がよく表れていて、初見の観客にも3人の関係性をワンシーンで上手く伝えている。猪突猛進に真っ先に一人で飛び乗る伊之助、あとに続く炭治郎は、善逸に手を差し伸べ手助けする。ひとつのアクションに3人の個性と関係性を詰め込み、なおかつ、モーションとエモーションを同時に動かすという映画史を踏まえた見事なアレンジである。原作に忠実という評価はもちろん正しいが、随所に加えられた絶妙なアレンジも本作を優れたものにしているポイントだ。