『TENET テネット』徹底解説! “時間の逆行”、登場人物の背景、そしてノーランの哲学まで

 名もなき男と、彼を助ける謎の相棒ニール(ロバート・パティンソン)。そして彼らの敵となるセイターは、それぞれに回転ドアを何回も利用し、逆行、順行状態で時間を行き来しながら、戦闘や追いかけっこを繰り返す。そのなかで、過去と未来から順行、逆行状態で二手に分かれて敵を挟撃するという、奇想天外な作戦も行われる。いくつかの場所で、二つの時間の流れが交差する様子は、奇妙で魅惑的だ。それらは綿密な準備を行った俳優たちが、台詞を逆にしゃべり、逆向きの動きでアクションをこなすなど、クリストファー・ノーラン監督らしい、CGを極力使用しない古典的な方法で表現される。

 この時間の交差の描写のなかで最も仰天するのは、戦闘のなかで一つの建物が順行の未来で破壊され、同時に逆行の過去でも破壊されるという一連の流れを、一方の時間の流れから映し出すシーンである。過去と未来、両側で破壊される建物は、破壊されるまでの一瞬だけしか、この世に存在しないことになる。では、この建物はそもそもどうやって存在していたのか? そう、“祖父殺しのパラドックス”が、そのまま映像として示されるのである。この狂気の演出は、本文の冒頭で紹介した『詩人の血』の煙突が倒壊するシーンが進化したもののようにも見える。

 狂った世界の醸成に一役買っているのは、劇伴を担当したルドウィグ・ゴランソンの仕事も大きい。音楽制作の作業が新型コロナの影響による自粛期間と被ってしまったため、オーケストラによる同時演奏を実現できなかったゴランソンは、演奏家の個々の演奏を集めて重ねたということだ。しかし、おそらく自宅での作業が中心となったことで、音楽は良い意味で、より内省的で実験的なものになったように思われる。10年以上ノーラン監督と仕事をともにしている巨匠ハンス・ジマーも、作品ごとにもちろん見事に劇伴を担当しているが、今回のゴランソンの突き抜けた姿勢は、ノーラン監督の狂気に負けていない。狂った映像に狂った音楽が乗っていることで、観客は拠りどころなく異世界に連れて行かれている気分を味わうだろう。しかし、その突き放したような姿勢にぞくぞくさせられるのだ。

 前述したように、ノーラン監督は、映画作品のなかで、これまで時間に関する要素を多く扱ってきた。『インセプション』については、“夢の中の夢”、さらに“夢の中の夢の中の夢”と、夢の世界の階層を描き、それぞれに時間の流れが異なるというシステムを表現していたし、『インターステラー』では、理論物理学における膜宇宙論やブラックホールの理論を基にした高次元空間の表現を達成していた。ノーラン監督の試みが圧倒的に画期的で独創的なのは、このような複雑なアイディアを思いついたとしても、多くのクリエイターはそれを映画で表現しようなどとは思わないところにある。

 2時間前後の上映時間しか持たない、映画で伝えられる情報量は限られている。製作者たちはできるだけ単純に還元された世界を観客に提示し、そこに叙情的な映像を加えていくのが常道である。その叙情性が、ときに「映画的」などと呼ばれたりする。だがノーラン監督が最も観客に提示したいのは、自分の考えた複雑な発想そのものである。それを観客に伝えることに注力することで、しばしば叙情的な雰囲気は希薄になっていく。絶大な人気を誇りながら、ノーラン監督に“映画的”な充実を感じないという映画ファンは少なくない。それは映像の大部分が、監督の頭の中を再現する意図で構成されているという部分が大きいからではないか。

 しかし、それもまた一つの“映画”のかたちであることも確かだ。ノーラン監督は間違いなく独自の世界を、執念によって誰にも真似のできない完成度で映画にしている。その作風は、いびつだが圧倒的にユニークである。その個性が前面に出た本作は、『インセプション』や『インターステラー』同様に、ノーラン監督における最良の作品だといえよう。

 そして、本作がいままでになく進化しているのは、可能な限り“映像そのもの”で状況を説明しようという意識が、これまでの作品よりも強いところだろう。そのため、一回の鑑賞ではストーリーがよく分からないという観客が続出しているのだ。この、観客をぐいぐいと引っ張り、ついて来れなければ置いていくという姿勢が、本作のような娯楽大作でも通用するというのは、ノーラン監督が大作の巨匠として当代一の存在である証左だともいえる。ノーラン監督は、自身の希少な立場をも利用して、作品の独自性をさらに先鋭化しているのである。

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