Netflix『タイガーテール』の味わい深いキャスティングと選曲 愛惜と憧憬がにじみ出る物語に

 創作の現場においては通常のばあい、ノスタルジーは批判の対象となることが多い。“映画とはもっとリアルで、アクチュアルであるべきだ”と、多くの批評家はノスタルジックなペシミズムに耽溺した作品を腐してそのように注意を促す。しかし、懐古、悔恨、憂愁でベタベタに湿りきった瞳が、ときにアクチュアルな問題意識よりもはるかに批評性を孕みつつ鈍く底光りするばあいも、なくはない。エドワード・ヤン(楊徳昌)初期の傑作『台北ストーリー』(1985年)で、一緒にアメリカに行こうと約束を交わしていた婚約者に対して主人公が「アメリカ移住がすべての処方箋になるわけではない」と吐き捨てるペシミスティックなシーンがある。この『タイガーテール』の重層するフラッシュバックもそのような例だと思われる。

 本作の中国語タイトルは『虎尾(フーウェイ)』という。つまり『タイガーテール』はそれの直訳ということになる。台湾中部、サトウキビ生産のさかんな自治体・虎尾。ピンリュイ、ユアン、ジェンジェンたちのふるさとの名前である。17世紀の豪傑・鄭成功がこの土地で乱暴をはたらく虎と戦って尾を切断したら、虎はしずかに姿を消したとかそんな故事から名付けられた地名らしいのだが、エピソードを知らない世界の人々にとって、虎尾という地名をタイガーテールと直訳してみても、なんのことやらまったく理解できない。広島をワイドアイランドと直訳しても、神戸をゴッドドアーと直訳してもなんの意味もなさないのと同様に、『タイガーテール』という固有名詞は空っぽなのである。家庭を顧みない主人公の失敗した人生(と断じていいのだろう)がさらす残骸のように……。

 過去に意味深かった事物を、現在にそれらしく翻訳してみても、意味がひたすら稀薄化するばかりという事実。時間の流れはそのように冷たい堆積によって変化を被り、その変化はとどまるところを知らない。老いたピンリュイは、ニューヨークの高級中国料理店でユアンと再会する。彼女もやはり渡米して別の州で暮らしているらしい。彼女は愛犬にお気に入りのシンガーの名前から「オーティス」と名付け、その写真をFacebookにアップして見せてくれた。そう、あの夜の川岸の「(Sittin' on) The Dock of the Bay」の残滓が、数十年後の現在も依然としてこだましている。そしてそれは彼女だけの符牒にすぎず、はた目にはありふれたオス犬の名前でしかない。

 数十年後に現れるかつての恋人ユアンを、ジョアン・チェン(陳冲)が演じ、短時間の出演ながら、まさに令夫人の気品を振りまいてくれた。ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』(1987年)で皇后を、スタンリー・クワン(關錦鵬)の傑作『赤い薔薇 白い薔薇』(1994年)で艶やかな人妻を、デヴィッド・リンチ『ツイン・ピークス』(1990〜91年)で製材所を相続する未亡人を演じたジョアン・チェンである。主人公の母親を演じる蔡明亮のミューズ楊貴媚といい、このジョアン・チェンといい、愛惜と憧憬のにじみ出たキャスティングも味わい尽くしながら見終えたい。

 懐古、悔恨、憂愁が尽き果てて、憮然としたようすで空洞に取り残された主人公を、廃屋の奥で息をひそめた死の世界からもはや見つめられつつさえある主人公を、バッハの「フランス組曲」第5番アルマンドの可憐きわまるピアノが、やさしく慰撫し、甘美に包み込んでいくことだろう。そしてそのアルマンドはかつて、少女時代の娘アンジェラが文化祭の発表でぶざまに弾き損じ、父の不興を買ったトラウマの源であるはずではなかったか。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。
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■配信情報
『タイガーテール -ある家族の記憶-』
Netflixにて独占配信中

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