『G線上のあなたと私』波瑠は“私たち”の代弁者 安達奈緒子が突きつける、恋愛と人間愛の困難さ

「人を好きになるとか、ほんと暴力です」

 ヒロイン・也映子(波瑠)と同い年のバイオリン講師・久住眞於(桜井ユキ)の言葉はいつも核心を突く。思わずハッと胸を打たれる。特に4話で発せられた、前述した一言は、夏目漱石の『こころ』における先生の言葉「しかし、君、恋は罪悪ですよ。わかっていますか」を彷彿とさせる。同時に、「人間ラブ」と恋愛の「ラブ」のせめぎあいの物語である、大人のバイオリン教室を描いたドラマ『G線上のあなたと私』の本質とも言えるのではないか。総じてこの話は、人間愛を理想としながらも、凶暴で残酷な恋愛というものに引っ張られずにはいられない主人公たちの物語なのだ。

 恋愛を前にすると、「全員被害者、災いでしかない」と4話で也映子が独白するように、全員被害者であると同時に、加害者にもなり得る。誰かを好きになることで、もう1人の誰かを傷つけずにいることはできない。

 このドラマは、優しい人たちの残酷さをちょっとずつ見せてきた。理人(中川大志)に片想いし続ける結愛(小西はる)に対する理人の一時期の中途半端な優しさもそうだし、あんなにも真っ直ぐに何年もの間、初恋を長引かせていた理人は、一旦也映子を好きになってしまったが最後、眞於の「いい相談相手」になってあげることしかできなくなってしまうこともそうだ。「大丈夫、すぐ立ち直るから」という言葉ほど、世の男たちにほっとけないと思わせる魔性の女にも関わらず、縋れる人が誰もいない眞於の強さと哀しみを物語っているものはないだろう。

 そしてそれを後押しした也映子もまた、以前は「人間関係の種類が、恋とか愛とかばかりだったら寂しいと思わない?」(6話)と微笑む眞於のことを「魔性だ」と言っていたのに関わらず、今度は也映子が眞於とほとんど同じことを言って、眞於の元へ、既に也映子のことを好きになっている理人を向かわせてしまうのである。それは正しいことである一方で、残酷なことでもある。

 5話で「大切な自分の時間を、誰のために使いたいか。意識していなくてもつい一緒に時間を過ごしてしまうのは誰なのか。きっとそういう誰かが大事な人」と也映子は「恋愛」について語りながら、「私が今日一緒に過ごしたかったのは幸恵(松下由樹)さんと理人くん」と「人間愛」の話に無意識にすりかえる。恋愛と人間愛がごっちゃになって揺らいでいる。このいつも真っ直ぐで正しいことを言っているように見えるけれど、実は強烈に揺らぎ続けているヒロイン・也映子ほど興味深く魅力的なものはない。

 いくえみ綾原作、そして『透明なゆりかご』(NHK総合)などの安達奈緒子の脚本であるからか、やはり注目せずにはいられないのが、人間愛と恋愛の間で激しく揺らぎつつ、絶妙なところで留まっているかのような、言葉のニュアンスの違いの面白さである。

 例えば、「溺れそうになって藁をも掴む/縋る」という似通った言葉でも、方向性は正反対である。1つは、3人がそれぞれの人生において溺れそうになって「本当に藁をも掴む」ようにバイオリン教室のチラシを持ち帰り、体験レッスンに駆けつけた彼らの「バイオリン教室」への思いだ。

 もう1つは、理人が恋について也映子にぶつける言葉「縋るもんじゃないの。それでもその手を離せない。好きってそういうこと」(1話)。そして也映子の「これが泣いて縋る人の感覚なのかもしれない。身体中の細胞が、行かないでって、言ってた」(7話)という、恋愛にまつわる「縋らずにはいられない」という感情である。

 バイオリン教室という「居心地のいい、安心できる場所」を彼らが求める気持ちと、恋愛としての相手を「好き」だと思う気持ちは、全く別次元の感情であるにも関わらず、「溺れそうで掴んだ/縋った」という言葉1つをとると共通している。溺れそうで掴んだ「バイオリン教室」に、息が苦しくて縋らずにはいられない相手をこれ以上求めてしまうのが怖くて、必死で戻りたいと願ってしまう。だから「(藁をも掴むような思いで)やっと安心できる場所に辿り着いたのに、(縋るように相手を求め)また真っ暗な海に放りだされる。今度泳ぎ着く場所は天国かもしれない、でも地獄かもしれない」(8話)なのである。

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