『アド・アストラ』は“文系SF”と呼べる作品に 破滅的ヴィジョンと一筋の救いを同時に描く

 興味深いのは、ロイが父親に近づけば近づくほど、精神が不安定になっていくところである。数々の試練や苦難に対して、悩み自問自答する日々が続き、軍の用意した精神鑑定システムにおいても、異常を感知するようになってくる。しかし、この不安定さというのは、ロイにとっては別の意味を持つのではないだろうか。

 ロイはこれまで自分の内面が、態度や行動などのかたちで、外に表出することができなかった人物である。劇中で死の危機に対して、こわばって動けなくなってしまう他の宇宙飛行士が登場したが、極端な状況においては、それがむしろ正常な反応なのではないのか。現実の世界でも、例えば戦場において、任務とはいえ人を大量に殺戮する行為を的確にこなし、何の影響もなく日常生活に戻れるとしたら、それは“正常”といえるのだろうかという疑問がある。だから、ロイがこのような状況で精神を病んでいくというのは、ある意味でロイの精神状態は良い方向に変化しているということもいえるはずなのだ。つまり、“正常に病んでいってる”のである。

 回復していく精神状態と、病んでいく精神状態。このふたつを切り分けて考えたい。前者は、自分の精神の発達を阻んだ原因である父親の存在を身近に感じ始めることで、自分の内面の問題を意識し、かえって積年の重圧を取り去ることができたと解釈することができる。そして後者は、父親が「地球の倫理から解放された」と記録映像の中で話すように、文明から離れた極限状態に身をさらすことで、人間性を喪失していくという、父親の精神の過程を追体験することで生まれている。

 ついに地球より43億キロも離れた海王星の近くで再会した父親に、「研究に夢中で妻や息子のことなど思い出しもしなかった」と、衝撃的な言葉を浴びせられるロイ。彼はすぐに「知ってたよ」と切り返すが、おそらくそれは、彼の防衛本能が言わせた咄嗟の言葉である。本音では彼は、「お前のことをずっと想っていた」と言ってくれることを期待していたはずなのだ。

 その根拠は、監督のジェームズ・グレイが明かした、本作の冒頭の演出にある。そこでは、父親役のトミー・リー・ジョーンズが発する「息子よ、お前を愛している」という音声が加工されて流されているというのである。これがロイの“隠された願望”であり、彼を支配していた心の重圧だったのだろう。

 その言葉を直接本人の口から聞くことができれば、ロイは救われたはずだ。しかし、それを得ることがかなわなかったことで、ロイは絶望にとらわれるのかと思えば、実際にはそのような展開にはならず、むしろロイは生きる力を与えられることになる。つまり最終的に救われるのである。これはどういうことなのだろうか。

 精神治療の分野では、精神上の問題の原因を突き止め、患者自身がそのことを認識すれば、そこで治療の大部分は終わっているということが、よくいわれる。つまり何を言われようと、父親と再会し、心の傷の原因になったものに対峙することこそが、彼にとって重要だったのである。

 家族を捨て、乗組員を殺害してまで「永遠に研究を続けたい」と語るクリフォードは、たしかに精神に異常をきたしている。「男の子はいつまでも男の子」などという言葉があるように、冒険家として、あるいは研究家として、“家族を顧みず仕事に没頭する”という、ステレオタイプな男性像が極度に先鋭化した存在がクリフォードなのだ。

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