『グリーンブック』は“人種差別”だけを描いた映画だったのか? その先にあったテーマを考える

 “グリーンブック”を片手に、アメリカ南部を車で旅するトニーとドクター・シャーリー。しかし、それでもなお、彼らは行く先々で数々のトラブルに見舞われる。そもそも、文化習慣はもちろん、その価値観が大きく異なる2人の意見は、ことごとく合わないのだ。雇い主とはいえ、舐められてたまるかと、いつもの不遜の態度を崩さないトニー。そんな彼の子どもじみた振る舞いを穏やかな口調で諭しながら、どこか興味深そうに眺めているドクター・シャーリー。彼のピアノの腕は、間違いなく本物だった。それはトニーにも、感じ取ることができた。しかし、あまり楽しそうには見えない。そして、時折彼が見せる孤独感の正体は何なのか。その才能に敬意を払うと同時に、ドクター・シャーリーという人間に対しても、トニーは徐々に興味を持ち始めてゆく。

 だが、そんな“黒人ピアニスト”、ドクター・シャーリーをめぐるアメリカの現実は、トニーが想像していたよりも遥かに過酷なものだった。その類まれな才能と技巧に賛辞を送りながら、それ以外の場所では、ひとりの黒人──すなわち、自分たちとは違う“何か”として、慇懃無礼な態度を隠そうともしない白人富裕層の人々。あるいは、名もなき黒人のひとりとして、問答無用にぞんざいな態度をとる街の白人たち。そして、白人が運転する車の後部座席に悠然と座る彼を、不思議なものを見るような目でじっと見つめる農場の黒人たち。そもそも、ホワイトハウスでの演奏経験もある著名なピアニストであり、高級フラットで悠々自適な生活を送るドクター・シャーリーは、なぜそのような過酷な現実が支配する、アメリカ南部をまわるツアーを企画したのだろうか。

 本人の口からその理由が直接語られることはないものの、それは同時代に活躍したキング牧師のように、依然として南部に残る“人種差別”に異を唱えるためではなかったはずだ。ツアー先で彼の演奏を聴きにくるのは、“差別する側”である白人の富裕層たちばかりなのだから。彼らはドクター・シャーリーの音楽的才能をほめたたえながら、その一方で彼が同じ宿に泊まることを拒否し、同じ席で食事をすることも、同じトイレで用を足すことも禁じる。彼らは悪びれることなく、こう言うのだ。「申し訳ない。ここでは、そういう決まりだから」。その不条理が、トニーにはどうにも納得がいかない。“人種差別”云々よりもまず、自分たちで彼を招いておきながら、その演奏を存分に堪能しながら、決して同じ“人間”としては扱わない、礼を欠いたその奇怪な態度が気に食わないのだ。そして、その苛立ちはやがて、そんな状況を甘んじて受け入れている、ドクター・シャーリー自身にも向けられていくのだった。

 あるとき、暴言を吐いた警官をトニーが殴り倒し、2人そろって留置所に放り込まれてしまったトニーとドクター・シャーリー。ドクター・シャーリーの機転によって、なんとかことなきを得たトニーは、その後、車の中で自らの暴力についてドクター・シャーリーに咎められる。「暴力は負けだ。品位を保つことが勝利をもたらすのだ」。そう、いかなる仕打ちを受けようと、そこで取り乱すことなく、自らの品位を保つこと。それこそが、ドクター・シャーリーの“戦い方”なのだ。しかし、トニーは納得がいかない。「俺はあんたより黒人だ。あんたは黒人を知らない。黒人の食い物、暮らし、リトル・リチャードも知らない」。その発言に、流石にブチ切れるドクター・シャーリー。「彼を知ってれば黒人か? 自分で言ってることが分かってるのか?」。

 しかし、それでもなお、トニーの言葉は止まることがない。「俺は自分が誰か分かってる。生まれ育ちはブロンクス。親と兄弟、今は妻子もだ。それが俺って男だ。家族を食わすために毎日働いてる。あんたの住まいは城のてっぺん。金持ち相手の演奏会。俺は裏町、あんたは玉座。俺の世界の方が黒い!」と。そんな彼の暴言を受けて、無言で車を降り立つドクター・シャーリー。そして、彼を追ってきたトニーに向けて、こう言い放つのだった。「私は独りで城住まいだ。金持ちは教養人と思われたくて私の演奏を聴く。その場以外の私はただのニガー、それが白人社会だ。その蔑視を私は独りで耐える。はぐれ黒人だから。黒人でも白人でもなく、人間でもない私は何なんだ?」。

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