『ルパンの娘』ラブとコメディが奇跡的に調和 “現代のロミオ”を大真面目にやる瀬戸康史
「恋愛ドラマがつくりにくくなった」現代に生まれた『ルパンの娘』
『ルパンの娘』(フジテレビ系)が面白い。残念ながら視聴率こそ伸び悩んではいるものの、そんなことを一顧だにせず、自分たちのやりたいことを貫き通す制作陣のブレない信念が、独自のワールドを築き上げている。
その強烈な世界観からコメディの印象の強い本作だが、実はラブストーリーとして見ても高い完成度を誇っている。そもそも本作は当初から現代版『ロミオとジュリエット』を標榜していた。『ロミオとジュリエット』といえば、言わずと知れたラブストーリーの金字塔。「泥棒一家の娘と、警察一家の息子による、許されぬ恋の物語」という設定は非常にわかりやすい枷ではあるし、家同士の確執に翻弄されたロミオとジュリエットの恋に通じるところもあるのかもしれない。
が、放送開始前までは、あくまでこの現代版『ロミオとジュリエット』というふれこみは、物語をわかりやすく訴求するための宣伝文句のようなもので、実際のところ2019年の東京で本気でそれをやるつもりなんてないだろうと、勝手に決め込んでいた。
そんな甘い見立てを、『ルパンの娘』は易々と覆してくる。このドラマは、恋愛ドラマがつくりにくくなったと言われる現代で、本気で『ロミジュリ』をやろうとしていたのだ。
その意志を所信表明のごとくぶち上げたのが、第1話の出会いのシーンだ。初めて会ったにもかかわらず、運命的に恋におち、キスをする華(深田恭子)と和馬(瀬戸康史)。舞台は、華の勤める図書館の一室。人目を忍び“Lの一族”という自らの出自に涙を流す華。そこに、和馬がやってくる。たなびく白のカーテン。暗い室内に差し込む自然光。そして、なぜか置いてあるやたらでっかい竪琴。え? ここ図書館だよね? ヴェローナの教会とかじゃないよね? と、脳内ツッコミを入れる間もなく、ほのかな光に照らされた和馬が、華の顎に優しく手を伸ばす。その画の美しさが完璧すぎて、笑っていいのかキュンとしていのかわからなくなった。この無駄にドラマティックな演出こそが、『ルパンの娘』の真骨頂なのだ。
第3話で華が和馬に別れを切り出すシーンも、イタリア街のような華やかな街並みに、光のネックレスを幾重も垂らしたような金色のイルミネーションが、ふたりの恋の舞台美術。さらにはエルベ広場のマドンナの噴水を思わせる豪奢な噴水まで映り込んでいて、これまた『ロミジュリ』の世界を完全再現していた。
だが、このあたりはまだ序の口。物語もコメディの色合いが濃く、『ロミジュリ』に関してもあくまでパロディであり、ロマンティシズムに徹した画づくりは、笑いのための起動装置と見ることができた。
風向きが一変したのが、第5話。華の正体を、和馬に突き止められるシーンだ。愛した女性が泥棒だったという現実に直面した和馬の涙と苦悩で歪んだ表情。そして、マスクを暴かれたときの華の呆けたような儚い眼差し。その真に迫る演技が、すべてを変えた。もう視聴者は完全に笑いを忘れて、皮肉な運命に引き裂かれたふたりの恋に言葉を失うばかり。「くっだらね~」と笑い飛ばすためにあるようなB級コメディが、感涙の純愛ドラマへと変身した瞬間だった。