『天気の子』から“人間性のゆくえ”を考える ポストヒューマン的世界観が意味するもの

アントロポセンに向かう世界

 いずれにせよ、以上に指摘してきた『天気の子』をめぐる表現上のポストヒューマン性は、いうまでもなく、他方で物語のうえのそれとも密接に連動しています。

 それはもちろん、この作品が主題とする、異常気候の近未来世界にこそ典型的に示されているでしょう。『天気の子』が描く2020年代初頭の世界では、長期間にわたって大量の雨が降り続き、現在の街はその一部が水没してしまっています。思えば、新海は『君の名は。』でも三葉たち人類の日常世界を突如襲う巨大な災厄(ティアマト彗星の分裂落下)と「人間の死滅」を描いていましたが、ご存知のように、同様のディザスター映画は、国内外でこの十数年、連綿と描かれ続けているわけです。

 こうした現象は、多くの論者がすでに論じ、またほかならぬ新海自身が述べている通り、明らかにぼくたちの現実世界で起こっているカタストロフ的な変化と関係しています。たとえば、それに作中で目配せを送っているのが、『天気の子』の終幕近く、帆高が眺めるオカルト雑誌の誌面に記された「アントロポセン」なるキーワードですね。アントロポセン(Anthropocene)とは「人新世」と訳される、近年、地質学の分野で提起されている新しい概念です。それ以前、もっとも新しい地質時代区分は、最終氷期が終わった以降を指すホロシーン(完新世)でした。ですが現在、人類という生物種の活動は大量の汚染物質の蔓延、6度目の大量絶滅とまでいわれるほどの生物多様性の急激な破壊、そしてほかならぬ地球温暖化をはじめとする急激な気候変動など、地球に対して惑星規模の大域的な影響を与えるようになっており、現状では現在形成されつつある地層は、もはや完新世とは異なる痕跡を地球に永続的に残す可能性がきわめて高くなっています。それゆえに、人類の生存可能性も含め、人類による環境変動を地質学的に確定しようと、ぼくたち人類の生きている現在を指す地質年代として、2000年に大気化学者のポール・クルツェンと生物学者のユージン・ストーマーによって提唱されたのが、アントロポセンなのです。

 つまり、作中でも慎ましやかに登場するこのキーワードが暗示するように、『天気の子』の物語もまた、まさに「人間以後」という意味でのポストヒューマン性をテーマとしているのです。また、この意味で、人間ではない動物に、「アメ」(雨)という可塑的な流体で、なおかつアントロポセンに関係する気候変動を意味する名前をつけられた猫のキャラクターは、きわめて暗示的であるといえるでしょう(新海の作品が『彼女と彼女の猫』[2000]、『猫の集会』[2007]、『だれかのまなざし』[2013]など、しばしば動物=人間以外の存在の視線から語られているという経緯も含めて)。

 あるいは、そうした世界観は、本作における――「美しい東京」や「豊かな日常」を描いた『君の名は。』とはいかにも対照的な――「汚い(ダークな)東京」や「貧しい日常」の描写にも表れているかもしれません。グローバル資本のポジティヴな趨勢とみごとに同調した日本の風景(クール・ジャパン!)を鮮やかに切り取り、1600円のパンケーキを放課後に頬張る、いわゆる「リア充化」した都会の高校生の主人公を描いた『君の名は。』に比較し、『天気の子』は一転、その行き詰まった負の側面を容赦なく描いている点でも強く印象に残ります。雨が降り注ぐ文字通り暗い東京の街は、雑居ビルの風俗店やラブホテル街、あるいはゴミ溜めの路地で溢れています。帆高はそんな街で、風俗のキャッチの男に殴られ、マンガ喫茶でカップラーメンをすすりながら、「Yahoo!知恵袋」でアルバイトの職を探すのです。

 こうした『天気の子』の描く、今日のグローバル資本主義の八方塞がりの閉塞状況のイメージは、イギリスの批評家マーク・フィッシャーがいう「資本主義リアリズム」という言葉を想起させるものではないでしょうか。あるいは、かなり雑駁な印象を承知でいってみれば、それはフィッシャーも関わっており、2010年代に大きな注目を集めている「加速主義」(Accelerationism)と呼ばれる思想的動向とも重ねてみたくなる世界観です。加速主義とは、さしあたりグローバル資本主義への唯一の「抵抗」として、テクノロジーを駆使しながら、現在の資本主義のプロセスをより加速させることで資本主義それ自体の「外部」を目指すという「反動的」な立場を指します。ある論者はそれを「悪くなればなるほど、良くなる(the worse, the better)」と表現しているようですが、それはあたかもYahoo!知恵袋(というダークでいまや古風なテクノロジー)に徹底的に依存することで、結果的に自己の未来へとイグジットしてしまう(「僕たちは、大丈夫だ」)『天気の子』の物語にも、どこかなぞらえられはしないでしょうか。そして、実際のところ、加速主義に詳しい文筆家の木澤佐登志も、まさに加速主義の「ポストヒューマン的」(あるいは「非人間的」)な性質に注意を促しています(『ニック・ランドと新反動主義』星海社新書を参照のこと)。とはいえ、加速主義の中身については、ぼく自身はほとんど詳しくないので、これ以上深くは論じませんが。

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