『貞子』はホラーとエンターテインメントを併せ持つ“フェーズ3”へ SNS時代の新たな貞子とは

『貞子』SNS時代ならではの呪いのルール

 98年から2000年にかけて正月第二弾興行として二本立てで立て続けに公開された『リング』『リング2』『リング0/バースデイ』(もちろん『リング』の併映だった『らせん』もテイストは異なるが同じ系譜上にある作品なので忘れてはならない)では“見ると死ぬ”と噂される“呪いのビデオ”によって死に至る若者たちの姿や、呪いのビデオを偶然見てしまった息子を守ろうとする母親の姿、そしてその周囲の人物たちに容赦なく訪れる恐怖を描きながら、その呪いのルーツが丹念に紐解かれていった。

 この一連の作品を貞子における“フェーズ1”として捉えるならば、行き場を失った女性の霊が呪念となってさまよい歩き、その存在に興味を持った人物をめがけて不特定多数に呪いをかける、いわば好奇に対して呪いで返す。そうした不条理な応酬が、果たしてどのような形で恐怖として成立するのかを試すものであったといえよう。後々このシリーズに端を発して確立される「Jホラー」が示した恐怖の方程式は、人間の好奇があらゆる方向に向かいはじめた90年代後半において、具体的なシンボルを用いなくても恐怖は成立しうるものであると証明しながらも、結果的に“貞子”という存在のインパクトにまざまざと敗北を喫してしまった気がしてならない。

 それは2010年代に入ってから作り出された3作品を見れば明らかだ。“恐怖”と“笑い”が常
に紙一重の関係にあることを活かし、貞子を哀しみを携えた1人の人間の成れの果てではなく、エンターテインメント的な“化け物”へと変化させた。もっとも、ホラー映画自体があまりにも乱立し、従来のJホラーのような湿度が高く視覚的なインパクトのない作品に観客が満足をしなくなってしまったというのがその一因といえるのではないだろうか。3D効果を使い、漠然とした化け物の大量発生に、挙句は貞子と同じような境遇を経て化け物になった『呪怨』の佐伯伽倻子と作品の枠を超えての対決。もはや“貞子”とは何なのか、それを噛み砕いて考えることを必要とされず、あらかじめ存在しているホラーシンボルとしてスクリーンの中に君臨させる。とはいえ、この“フェーズ2”では呪いのビデオが過去の産物であり、呪いの動画として拡散される時代が来たことが示されたという点で大きな意味を持つのだが。

 そして現在公開されている『貞子』は、前述の相反する2種類のフェーズの良い部分を抽出した、まったくもって新しいハイブリッド型の“フェーズ3”の幕開けを予感させる仕上がりになっていた。貞子という“人物”としての歴史が20年前からしっかりと受け継がれながら、“化け物”としての貫禄も携える。しかしながらその存在自体に恐怖を感じるか否かという点においては、すでにエンターテインメント的な存在に昇華してしまったがために依
拠することはできず、かといって虚仮威しのような手法に逃げることもしない。あくまで
も、呪いにかけられていなくなった弟を助け出すために、“貞子”という得体の知れない存
在に触れる主人公の姿だけが端的に物語られ、そこに生き証人・倉橋雅美ら、貞子と近い
人物が介入してくるわけだ。

 何よりも気になるのは、フェーズ2で変化した“呪いの動画”が継承されながらも、その動画の取り扱い方法が大きく変容されている点だ。これまでは、あくまでも“見ると死ぬ”ものだったのに対し、今回は“撮ると死ぬ”という新しい図式へとシフトし、もはや映像コンテンツが見るものよりも撮るものになった現代のスタイルにしっかりと合致させていく。そうした中でもあまりにも興味深いことは、その両方をほどよく兼ねることはせず、呪いの動画を見ただけの人物には何も起きないということだ。かつて呪いのビデオが口コミによって広がっていった時代に比べ、あらゆることが否が応でも目に入る情報過多社会において、動画拡散の威力というものはあまりにも大きくなったのだろう。貞子の呪いをもってしても、さすがに手が回らなくなったようだ。

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