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“あるがまま”を見つめる無垢な瞳ーー『幸福なラザロ』が訴えかえる“幸福”とはなにか?

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 「幸福」とは、いったいなんなのだろうか。果たして何をもってして、そう呼ぶのだろう。

 前作『夏をゆく人々』(2014)が、カンヌ映画祭でグランプリを受賞し、世界中から熱い視線が注がれたアリーチェ・ロルヴァケル監督の最新作である『幸福なラザロ』。昨年の同映画祭で脚本賞を受賞した本作は、1980年代初頭にイタリアで実際にあった詐欺事件と聖書を下敷きに、あるひとりの青年の姿を映し出し、観る者のあたたかな涙を誘うとともに、「幸福とはなにか?」と揺さぶりかけてくる。

 舞台は20世紀後半の、とある小さな村。ここに暮らす人々は、小作制度の廃止をひた隠し続ける侯爵夫人(ニコレッタ・ブラスキ)に騙されたまま、現代社会とはおよそかけ離れた、いわば原始的とも呼べる生活を送っていた。夜になればあたりは暗く、電灯ひとつ満足に灯すことはできない。そんな中でも人々はときに歌い、ときには少量の酒を酌み交わし、身を寄せ合ってつつましく、小さな幸福を見出していたのだ。その村人の中のひとりに、青年・ラザロ(アドリアーノ・タルディオーロ)がいるのである。

 映画の冒頭から「ラザロ」という言葉がひっきりなしに飛び交い、作品タイトルに冠されたものとして以上に、その名は私たち観客により強く印象づけられていく。本作のタイトルは『幸福なラザロ』であるが、どこからどう見てもこのラザロという青年は、とても幸福そうには思えない。彼の身に着けるシャツは黒ずみ、肌と髪はつねに脂汗にまみれ、みなで回し飲みする酒は彼のもとには回ってこず、笑われ、嘲られ、使いパシリにされることもしばしばである。悪どい侯爵夫人に搾取される人々たちから、彼はさらに搾取されるような存在なのだ。

 しかし、わざわざ映画を観に街(東京・渋谷)まで出かけていく余裕があり、サービスの行き届いた環境で気持ちよくラザロの姿を眺めている筆者などが、彼が幸福であるのか不幸であるのかどうかなど、勝手に決めつけられはしない。それは彼自信が判断することであり、ひょっとすると彼の存在を生み出した監督であるロルヴァケル自身も、それは知り得ないことなのかもしれないのである。そもそも個人の幸福とは、他者がはかれるものではないのではないだろうか。

 とうのラザロ自身は、自分が幸福であるのかどうかなど、まったく意に介していない様子である。彼の示す素振りを見るにつけ、名伏しがたい幸福感を感じてしまうが、これもまた、いち観客のひとりである筆者の、取るに足らない主観に過ぎないだろう。ところがこれを裏づけるのが、彼がとてつもないイエスマンであり、お人好しであり、他者の行いになんの疑いをも持たないという事実。彼の青く澄んだ瞳が、この事実を観客に対して直接的に示す。彼はそこに映るものを、善・悪などと単純に分けはしない。その判断基準が、彼にはないのだろう。ラザロのつぶらな瞳には、他者に対する欲や感情の揺らぎはなく、あくまでことの成り行きを、“あるがまま”に見つめているだけなのだ。この澄んで見える瞳を、さしあたり「無垢な瞳」とでも呼びたいのである。

      

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