【ネタバレあり】『キャプテン・マーベル』はなぜ分かりやすい直球のヒーロー映画になったのか?

 マーベル・スタジオ初となる、単独女性ヒーロー映画『キャプテン・マーベル』。2015年にアカデミー賞主演女優賞を獲得したブリー・ラーソンが演じる、マーベルのヒーローたちのなかでもとりわけ強大なパワーを持つ女性ヒーローが悪をぶっとばす快作だ。世界中で大ヒットをとばしていて、日本でも初公開の週末までの3日間で動員40万人を超えるなど好調だ。

 そのヒットの理由にあるのは、あまりにも衝撃的な内容だった『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の存在も大きいだろう。そこで描かれた、銀河の命運がかかった戦いのなかで、キャプテン・マーベルが一筋の希望として示される場面があり、アベンジャーズの集大成として公開される『アベンジャーズ/エンドゲーム』を観るためには、『キャプテン・マーベル』をも事前に観ておかなければならないという空気が作られたのだ。ビジネスとして抜け目のないやり方だが、いままでも複数の作品をクロスオーバーさせることで相乗的な価値を生み出してきたマーベル・スタジオ作品にとっては、これは通常の対応でもある。

 では、アベンジャーズから離れて、本作 『キャプテン・マーベル』を単独として観たときの出来はどうだったのだろうか。私が目にし、聞いた限りの評判では、悪し様に言うような感想はほとんどなく、観客の評判はだいたい2つに大別されるように感じられた。それは、「最高!」と絶賛する声と、「なんか、普通だった……」という声である。もちろん、“最高”と“普通”には大きな隔たりがある。しかしその2つは、今回に限ってはたしかにその通りではないかとも思えるのだ。つまり、ある意味で“普通”であり、同時に“最高”な状態。これらが矛盾なく両立していると感じられるのである。

 『アイアンマン』より始まった、マーベル・スタジオによるヒーロー映画シリーズも、もう10年続いている。登場するヒーローが増えてきて、後続となる各作品の悩みの種になってきているのが、いわゆる“オリジン”にまつわる問題である。

 オリジンとは、ヒーローの活躍を描くアメリカンコミックにおいて、主人公がヒーローになるまでの流れを見せていく物語のことだ。シリーズを見続けている観客のなかには、一人ひとりのオリジンを個別に見届けていくのは、さすがにつらい部分があるという人も少なくない。近年、それを回避するために『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のように直接的にはその過程を描かなかったり、『ブラックパンサー』や『スパイダーマン:ホームカミング』のように、関連作のなかで顔見せが済んでいることを理由に、オリジンをほぼ無視してしまうケースも出てきた。

 『キャプテン・マーベル』にも、そのあたりの工夫は見られる。後にキャプテン・マーベルとなる主人公ヴァース(ブリー・ラーソン)が登場時にはすでに記憶喪失になっていて、出自を自らが捜査するという、ちょっとしたミステリーのような展開が、本作にはある。とはいえ、この設定には弱点もあるのではと思える。本作がその大部分を費やして明らかにするのが彼女の経歴である。そして、その経歴の中身そのものこそがオリジンなのだ。つまり本作は、ほとんどがオリジンにとらわれた物語ということになる。

 これは、最近の多くのヒーロー作品に見られる、オリジン部分をできるだけ手際よく短めに終わらせ、そこから続く新しい物語によって観客を惹きつけるという試みと逆行するものである。だから、本作に対する「普通」という感想の一部には、ミステリー仕立てとはいえ、結局は、ヒーロー映画にありがちな、ヒーロー誕生までの過程を見せられることへの不満が幾分含まれているように感じられる。

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