イーストウッドが描く前代未聞の実話! 宇野維正がこの春必見の『運び屋』をレビュー
実際に、『運び屋』は一見して驚くほど無作為な作品だ。本作で実在した「90歳のドラッグの運び屋」を演じているイーストウッド(撮影時は87歳だったので、驚くべきことに3歳上の役を演じていることになる)だが、冒頭の「過去」のシーンとその後の「現在」のシーンでメイクはもちろんのこと演じ方もまったく変えてないことに、一瞬当惑してしまう人も多いだろう。そんな無頓着さはキャスティングにも表れていて、ブラッドリー・クーパー、マイケル・ペーニャといった他の作品ならば主演クラスの役者が揃っているにもかかわらず、単純に彼らの出演シーンが思いの他少ないだけでなく、劇中での役の扱いも驚くほどぞんざいだ(そこが逆に新鮮なのだが)。イーストウッド作品においては、同時代の他のハリウッド映画の常識はまったく通用しないのだ。
あくまでも主人公視点で、スルスルと反復と場所移動を淡々と繰り返しながら(なにしろ「運び屋」が主人公なので必然的にロードムービー、それも往来が繰り返される「反復のロードムービー」となる)、まるで水や空気のようにストーリーが無作為に進行していく『運び屋』だが、『グラン・トリノ』譲りの周囲の人々との軽妙なセリフの応酬もあいまって、とにかく呆気にとられるほど面白い。それは、ベースとなった実話の奇想天外さにも由来しているわけだが、それ以上に余計なものを周到に削ぎ落として映画のストーリーテリング(≠ドラマ)のみに奉仕している、イーストウッドの監督/演技者としてあらゆるものを達観して超越したそのスキルによるものだろう。その巧みさは、時制を大胆な編集で入れ替えることで、実話を基にした作品に不思議なグルーブを生み出していた『ハドソン川の奇跡』や『15時17分、パリ行き』の先進性とも異なる。少々乱暴かもしれないが敢えて指摘をするなら、イーストウッドがその同時代に絶対的なスターアクターとして君臨しながら、そうであったがゆえに微妙にすれ違ってきた60年代後半〜70年代前半のニューシネマ的な自由な空気が本作にはある。
クライマックスでヘリコプターまで出動して唐突に作品のスペクタル性が高まるにつれて、「60年代後半〜70年代前半のニューシネマ的」という自分の印象は確信へと変わるのだが、それをもって本作を「懐古的」とするのは間違いだ。本作では、『ブレイキング・バッド』以降、ドラマでも映画でもブームが継続しているドラッグディールものへの目配せもしっかりとされている。『グラン・トリノ』以降、映画では『ジャッジ 裁かれる判事』を除いて映画作品がなかったが、その間に実話ものの『ナルコス』や同じく実話の犯罪者もの『マンハント』(いずれもNetflix作品)の脚本を手がけてきた脚本家のニック・シェンク。今回のイーストウッドとシェンクの10年ぶりのタッグには、『グラン・トリノ』の続編的作品という意味合いだけでなく、「ドラッグディール」の「実話もの」という必然的な理由もあったわけだ。
映画において「作為性」を削ぎ落とすということは、場合によってはエンターテインメント性からの逃避と思われることもあるだろう。しかし、イーストウッドは最新作『運び屋』によって、久々に主演をしているという意味ではまさに自分の身体を張って、そんな意見は青二才の言い訳であることを証明してみせた。『運び屋』は今のところ今年最も優れた映画であるだけではない。今のところ今年最も面白い映画でもある。
■宇野維正
映画・音楽ジャーナリスト。「MUSICA」「装苑」「GLOW」「Rolling Stone Japan」などで対談や批評やコラムを連載中。著書『1998年の宇多田ヒカル』(新潮社)、『くるりのこと』(新潮社)、『小沢健二の帰還』(岩波書店)。最新刊『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア)。Twitter
■公開情報
『運び屋』
3月8日(金)全国ロードショー
監督・出演:クリント・イーストウッド
脚本:ニック・シェンク
出演:ブラッドリー・クーパー、ローレンス・フィッシュバーン、マイケル・ペーニャ、ダイアン・ウィ―スト、アンディ・ガルシア、アリソン・イーストウッド、タイッサ・ファーミガほか
配給:ワーナー・ブラザース映画
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公式サイト:www.hakobiyamovie.jp