『ボヘミアン・ラプソディ』『BPM』『ナチュラルウーマン』……様々なLGBTQの姿描いた2018年の映画
ロバン・カンピヨの『BPM ビート・パー・ミニット』は、90年代にHIV啓発と政府の対策を訴えて闘った若者たちを描いた作品で、エイズ禍を回顧する作品としてはひとつの極に達した傑作だ。カンピヨ監督は自身も『アクト・アップ』の運動に参加していた経歴を持つが、昨日までともに闘った仲間たちが次々と命を落としていくなか、それでも生き延びてしまった自分がいまやるべきことを真剣に考えた跡が作品には刻まれている。製薬会社に乗りこんで血液を模した液体を投げる彼らの姿を過激と思うひとも多いだろうが、それくらい生き死にを懸けた闘いだったのである。映画は後半に向かうにつれ運動の熱から個人の痛みへとフォーカスを当てていくが、その圧倒的な悲しみと死の匂いには呆然とするばかりである。『ボヘミアン・ラプソディ』と同じくらいとは言わないが、もっと多くのひとに観てもらいたい作品のひとつだ。
いっぽうで、同性愛を描いたものとしては伝統的な「カミング・オブ・エイジ」ものが目立った年でもあった。カミング・オブ・エイジとは子どもから大人に移り変わる時期を指す言葉で、ようするに思春期の性の目覚めを描いているものだ。そして、これははっきりと傾向であると言っていいと思うのだが、そうしたものにより前向きな空気を持つ作品が増えている。『彼の見つめる先に』、『LOVE, サイモン 17歳の告白』といった作品がそうで、これは明らかにこれから大人になる世代のゲイ、あるいはセクシュアル・マイノリティたちを勇気づけるものだろう。『君の名前で僕を呼んで』はゲイ・ロマンスと言うよりは、少年の成長と初恋の瑞々しさを純化して描いた作品だったが、どこまでも同性愛が否定されることのない世界を描いているのは間違いない。息を呑むような美しい映像と見事な長回しで、同性愛も含むエロスを肯定してみせるのである。
また、同性愛を描きながら社会背景を巧みに織り交ぜる作品も変わらず多い。『レインボー・リール東京』で上映され好評を博した『ゴッズ・オウン・カントリー』は、田舎の農村を舞台にしているところから「英国版『ブロークバック・マウンテン』」とも言われたが、じつは『ブロークバック~』の悲壮なラブ・ロマンスとはまったく異なる余韻を持つ。キーになっているのは東欧からの移民であるゲオルゲの存在で、彼と愛を育むことで愛の意味もセックスの歓びも理解していなかったジョニーは自分の人生を見出していく。これはブレグジットを思い起こすまでもなく閉じていくUKに対する違和の表明であり、ロマンス映画からの抵抗だ。『彼の愛したケーキ職人』はイスラエルを舞台として、同じ男を愛した青年と未亡人女性の交流を描いているが、ここでは宗教とセクシュアリティの自由の間の葛藤、国籍や文化の違いといったものが巧みに背景に織り込まれている。セクシュアル・マイノリティにとってどこで生きるかというのは切実な問題であり、これまではどうしても都会でなければ苦しいといったものが多かったが、それが次第に変わってきたようだ。
女性同士の恋愛、レズビアンを描いた作品は現在のフェミニズムの高まりと同期する作品が目立った。たとえば『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』の主軸はかつてのテニス女王ビリー・ジーン・キングが女性の権利を求めて男たちと文字通り闘ったことにあるが、彼女のセクシュアリティの発見、そしてのちにLGBTQ運動の先駆者となるところまでをしっかりと捉えている。つまり、女性の性の肯定はゲイ/ヘテロにかかわらずある種の闘いであることが、現代的な視座から見つめ直されているわけである。ヨアキム・トリアーの『テルマ』はレズビアン版のカミング・オブ・エイジものとも言えるが、と同時に、「秘められた力」に目覚めていく少女テルマは、自らの才能を発揮していく女性の姿として捉えることもできる。彼女が厳格な家父長制から逃れるためには、セクシュアリティと自身の能力を肯定することが必要だった、ということだ。