『来る』評価二分の理由は“二つの先進性の絡み合い”にあり? 中島哲也監督の作風から探る

 38億円以上の興行成績をあげた『告白』(2010年) によって一躍、日本を代表するヒットメイカーの一人になった中島哲也監督 。同時に、新作公開の度に賛否の渦を巻き起こすことでも知られている。今回の『来る』もやはり物議を醸す作品になっていて「さすが」と思ってしまう。

 ここでは、なぜ中島哲也監督作がそういう性質のものになってしまうのか、そして本作『来る』は、その監督作のなかでどういう意味を持つものになったのかを、できるだけ深く考えていきたい。

 賛否の大きな要因は、これまでにCMやミュージックビデオを手がけ、その手法を映画の演出のなかでも積極的に使用している中島監督の作風にある。カット割りが多く、CGをためらわずに使用し、画面の装飾が過多だったりなど、「かっこつけた」映像が「映画的でない」……要するにヴィジュアルだけの作家だと、一部の評論家や観客から敬遠されているのだ。

 しかし、それは保守的な見方ではないかと私は思う。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』(1925年)や、ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1960年)などは、かつてあり得なかった破壊的で反自然的な編集によって映画表現の幅を広げ、現在の「映画」をかたちづくる礎となっている。映画史を踏まえた知性や、映画における職人的な技術に魅了される作品は、確かにある。しかし、ミュージックビデオのような「非映画的」に感じる演出すら包含し得るのが、本来の「映画」なのではないだろうか。

 それでは何を問題にしたいのかというと、その表現自体が純粋に優れているかどうかに尽きる。 中島哲也監督の「表現力」は、日本国内の監督のなかでずば抜けているといっていい。CGなど特殊効果を使い、エキセントリックな編集を行いながら、ハッとさせられるような映像体験を一つの作品のなかでいくつも作ってしまう。

 とくに日本では少ない、既存の表現をアレンジするよりも、自分自身のイメージをクリエイトする能力に長けているタイプである。これは得難い才能であろう。以上が私の中島哲也監督への、大枠での評価だ。それを前提にして話を進めていきたい。

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