『ハード・コア』はなぜ現代社会と重なった? 山田孝之と佐藤健が抱える空虚の正体
右近が何に憤りを感じているのかを考えてみよう。まず、そこには現代の日本社会が商業的価値観を中心にまわっているということへの強い懐疑がある。そして、基本的には西洋の子どもの行事であるハロウィンを利用して、商売人たちが経済効果を生み出そうとする扇動への嫌悪感。さらにその目論見に何の疑問も持たず、まんまと乗ってしまう若者たちへの失望。結局それがナンパの口実として機能していることなどへの不快感が、彼の中で猛烈な勢いで渦巻いていたはずだ。
このような右近の心情を説明するには、前提として狩撫麻礼の代表作の一つ『迷走王 ボーダー』を挙げると分かりやすいはずだ。そこで描かれていたのは、バブル真っ只中の日本の社会において、「富を持つ者」と「持たざる者」、「表面的な価値観に踊らされている者」と「その欺瞞に気がついている者」が存在し、その間には目に見えない境界線(ボーダー)があるという見方についてだった。
カネのためにしか生きていなかったり、「本物」を理解できないような人々を、ボーダーを越えた「あちら側」と呼んで蔑み、たとえカネに恵まれなくとも、自分自身が納得できる生き方を「こちら側」と呼んで、その境界上で起きる葛藤を描き、ドラマを生み出していた。そして、その生き方に理想やロマンを重ねていたのだ。
しかし、本作、および本作の原作では、そのような価値観にかなり内省が生まれているように感じられる。一般大衆を蔑む主人公・右近は、ごく少数のメンバーによって構成される怪しげな右翼団体に所属し、幹部たちの指示により埋蔵金を探すための穴掘り作業に従事。生活は困窮しているし、もちろん恋人もいない。世間の風潮に背を向け、孤高に生きているつもりの主人公の境遇は、哀しくもかなり滑稽なものとして描かれているのである。そして、ハロウィンなどでチャラチャラしてる男女に激昂したり、ハードボイルドを気取って高踏的に振る舞っているのは、社会の価値観からはじき出されてしまったことに対抗し、みじめさを隠すための防衛手段に過ぎないことまで指摘しさえする。
ここで気づかされるのは、このような一種の悲劇というのは、いまの日本社会ではごくごくありふれた話であるという事実である。内閣府の調査では、2016年に婚姻率は過去最低を記録し、1970年代前半と比べると半分の水準となっているという。このような結果が出たことには様々な要因が考えられるが、とくに大きいのは就労の問題であろう。完全失業率は回復傾向にあるものの、非正規雇用者の比率は増加し、ブラック企業の問題など労働者にとって厳しい状況が続いている。とくに男性の非正規雇用者は結婚への意欲が低いというデータもある。本作に描かれている問題が身に染みて実感できる観客が多いのは、「いま」この時なのではないだろうか。
この状況下で、かつて世間一般でいうところの「幸せな家庭」を持つことができる人は限られてきている。そこからあぶれた男性にとって、結婚という制度にはじめから興味などないというようにハードボイルドを気取るということは、世間に向けて最低限の体裁を整える一つの現代的な知恵だといえるかもしれない。その残酷な現実を主人公に直接指摘するのは、商社マンである弟の左近である。左近は右近とは対照的に、世の中の長いものに自ら巻かれ、利益をがむしゃらに追求する、経済的にはとくに不自由のない人物だ。
では本作はやはり、そんな両極にいる二人の間のボーダーについての話なのかと思っていると、じつは意外な展開が待っている。左近は夜景を眺めながら、職場の女子社員と高層ビルのオフィスでのセックスに励んでいるが、そんな左近も、励んでいる最中にも関わらず何か満たされない表情を浮かべているのだ。