宮台真司の月刊映画時評 第10回(後編)

宮台真司の『寝ても覚めても』評:意味論的にも視覚論的にも決定的な難点がある

映画の意味論に反発する女が目立つ理由

 麦と亮平の対比は平明です。「超越系」(ここではないどこか)と「内在系」(ここ)との対比、「非日常愛」と「日常愛」の対比です。写真なんて分からないと宣う亮平と、牛腸茂雄の写真展を訪れる麦。お前のことをたぶん一生信用できないなどと中二病的な発言をする亮平と、亮平の元に戻りたいとする朝子の構えを一瞬で理解して一人旅立つ麦。などなどです。

 多くの恋愛は「非日常愛=ここではないどこか」として始まります。脳生理学によれば「非日常愛=情熱としての愛」は2年しかもちません。これを「日常愛」に変換できれば関係を続けられ、変換できなければ関係は終わる──といった認識に留れば、単なる男の願望です。以下に紹介するように、多くの女は「非日常愛」を断念せず、「別口で」確保しようとします。

 朝子の選択可能性を吟味しましょう。亮平は退屈な男ですが、麦であれば退屈しない。でも麦を独占できず、彼との関係を「日常愛」には変換できません。麦が「日常愛」の相手として相応しくない以上、「亮平と日常愛の関係を築きがら、麦を時々食べる」というのが多くの女のrealismになります。実際にそういう感想を口にする女が多数存在しています。

 それがいいか悪いかの規範に関係なく、「世界は確かにそうなっている」というontologyです。ontologyを踏まえて生きようとする通常の構えがrealismです。realismに則った場合、「起」=愛する麦が失踪、「承」=麦と似た亮平に出会って好きになる、「転」=麦が突然現れて車で逃避行、「結」=気が変わって亮平の元に帰郷、という展開は不自然なのです。

 「非日常愛」の男に逃げられ、容姿が似た「日常愛」の男にハマったが、「非日常愛」の眩暈が忘れられず、再会した「非日常愛」の男に再び傾斜したものの、「非日常愛」がどのみち続かない事実や「日常愛」の積み重ねが与えた機微を思い出し、「日常愛」への帰還を決意する……。「日常と非日常」即ち「法と法外」の構造に即せば、確かにありそうに思えます。

 でも単なるお話(メロドラマ)としてありそうなだけ。観客の一部がこれを不自然だと感じるのはrealismから外れるからです。観客の一部が踏まえるrealを統計的に示します。1970年代のモアリポートが報告した通り、日本人既婚者の婚外性交渉割合は先進国の中では高い。この20年で性的退却が進みましたが、婚外性交渉割合はむしろ激増しました。

 性愛研究の界隈では有名な2013年に実施された相模ゴムによるWEB調査を紹介します。「結婚・交際相手がいる人」のうち男の27%、女の16%に性交する浮気相手がいます。次に日本老年行動科学会の2000年と2012年の比較調査を紹介します。40代以上だけが対象ですが、男女とも全年代で「配偶者外の親密な関係を持つ割合」が激増しています(図を参照)。

 性体験率・交際率・交際経験率に注目する限り「性的退却」が著しく進んでいるのに、パートナーがいる男女に限って言えば浮気割合・浮気経験人数が激増して活動水準が上がっている「ように見える」のはなぜなのか。「ように見える」と但書を付けたのは、僕が2000年に設計したZ会名簿を用いた大学生調査のデータとの兼ね合いがあるからです。説明しましょう。

 それによれば「両親が愛し合っている」と答える男女と「性情報を家族や友人などの人間関係から得てきた」と答える男女は、そうでない男女に比べて「ステディがいる割合が多い」のに「性体験人数は少ない」。ここに性愛の交際の「密度」と「体験人数」が反比例する関係が見られます。密度が下がって頻度が上がった状態を活動水準が高いと言えるか疑問なのです。

 これらを踏まえれば、主人公・朝子が「超越系=非日常系」の麦と「内在系=日常系」の亮平の二者択一で悩むという設定は不自然です。大半の女は、「日常系」の男を手元に押さえた上、「非日常系」の男を「気分転換のために」時々利用します。良き妻や母であるためにこそ時々浮気をする──かつて関わったテレクラ・ドキュメンタリーで幾度も拾えた発言です。

 後の視覚論の伏線になるので、意味論の考察を深めます。女が「非日常」の渾沌を経て「日常」に戻るというのは男視座にありがちな願望に過ぎません。あれこれあって生活に「戻る」という通過儀礼図式は、今村昌平『赤い殺意』(1964)以来昼メロに継承された意味論の伝統です。今回の映画はそれを継承した──と考えるのであれば、『赤い殺意』の誤読です。

 通過儀礼は「離陸」「渾沌」「着陸」の3段階を辿りますが、人類学者が明らかにしてきた通り「離陸面」と「着陸面」は異なります。『赤い殺意』もそう。主人公貞子は生活に「戻った」のではなく「再帰的に関わるようになった」のです。「敢えて生活に関わる」ようになって選択肢が増えた(自立した)。どんな選択肢なのかを想像させるところが映画の醍醐味です。

 それを一口で言えば、いつでも生活を放棄できる自由を手元に置きながら、敢えて生活を送る生き方です。学問的に言えば、単なる「適応」から高次の「適応力」への転換。「主婦として生きる」生き方から「主婦になりすまして生きる」生き方へのシフト。ただし「主婦であること」の価値が下がるのではない。テレクラ主婦の発言通り、むしろ価値が上がるのです。

 以上のように、「日常愛」か「非日常愛」かの二者択一で主人公が悩むという設定は、少女漫画的=中二病的です。この映画を見た中高生の男女が、「やはり賢明な女は最終的には日常に戻るのだ」と思うならば、悪影響メディアになります。現実には、「いろいろあって戻る」の意味は、「曇、時々晴れ」ならぬ、「日常、時々非日常」という構えになるわけです。

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