小野寺系の『未来のミライ』評:いままでの細田作品の問題が、作家的深化とともに表面化
細田守監督の最新作『未来のミライ』に、SNSなどで容赦ない批判の声が浴びせられている。本編よりも、その開始前に上映された『シン・エヴァンゲリオン劇場版』特報の方に話題が集中するという珍事まで起きてしまったほどだ。
近年の細田作品は、公開規模の拡大も影響して、作家性の深化とともに賛否が飛び交うケースが確かに多くなっていたといえる。だが今回の『未来のミライ』については、否定的な声が賛辞の声を圧倒しているのだ。これは細田監督の劇場作品としては、いままでになかった事態である。
果たして本作『未来のミライ』の映画作品としての出来は、実際どうだったのだろうか。ここでは本作の内容や、細田監督の過去作の比較などを通し、歯に衣を着せず批評しながら、なぜそのような否定的な意見が巻き起こったのかを考えていきたい。
描かれるのは、小さな世界と大きな世界
『未来のミライ』は、横浜の海沿いの景色を俯瞰した眺めを映し出すことから始まり、住宅地にある個性的なデザインの一戸建てへと寄っていく。そこが、本作の主人公である4歳男児“くんちゃん”の住む家だ。
甘えん坊のくんちゃんは、赤ちゃんの妹“未来ちゃん”に、両親の愛情が奪われたと感じ始める。くんちゃんは嫉妬心をかきたてられ、親の注意をひくために「赤ちゃん返り」をしてしまうが、そういうときに、くんちゃんは木が生えている自宅の中庭から、過去や未来の世界へと導かれたり、過去や未来の家族と出会い、不思議な交流をすることになる。中庭からそれぞれの世界とつながることで、くんちゃんは妹・未来ちゃんの“お兄ちゃん”として成長していく。
くんちゃんの人間的成長。これが本作が設定する物語上の第一目的である。ごく小さなスケールの達成であるが、それを日本で生きてきた祖先の歴史や未来と重ね合わせ、一人ひとりの存在が壮大な生命の流れの一部であることや、その土地が記憶してきた人々の営み、小さな一つの選択が重要な意味を持ち、歴史を作っていくという世界観を背後に提示するのがねらいだ。
『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』や『サマーウォーズ』のような作品で発揮されていた細田監督の作家性の一つは、地球規模の危機と、生活にまつわるドラマやディテールを同時に描き、そこにリンクを持たせるということだった。それはつまり、『新世紀エヴァンゲリオン』以降に流行した、個人の小さな物語が世界の存亡とつながる、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるような系統に連なっていると感じる。その意味では、新海誠監督とも共通する部分があるように感じられる。
本作はそれを、より一般的な舞台に移し替え、日本の家族を象徴するような、より普遍的で強い物語を作り上げようとしている。その作家性の深化は映画監督として必然的な流れだと思えるし、いままでの作品の要素が折り畳まれた本作が細田監督のキャリアの集大成であることも納得できる。何より、従来のアニメーションが陥りがちなジャンル的価値観から抜け出そうとする挑戦的な姿勢は評価したいと思える。
だがその想いを受け取ったにせよ、そうでなかったにせよ、本作を退屈に感じた観客が多く生まれてしまったことは事実だ。そして、その理由が観客の理解力不足にあるという指摘をすることは、この場合は筋が違うように思える。なぜなら、ここで伝えようとしているメッセージは、まったく難解なものではないからだ。それが伝わらないとすれば、それは作り手の責任だし、作り手の意図を十分に理解したうえで、内容を批判している観客もいるはずなのである。