宮藤官九郎×石井岳龍が生み出した荒唐無稽な愉悦感 『パンク侍、斬られて候』に映る私たちの姿

荻野洋一の『パンク侍、斬られて候』評

掛十之進(綾野剛)「ええと、ということはその、どうなるんでしょう?」
内藤帯刀(豊川悦司)「どうもならん。腹ふり党の危機を訴えてきた私は、面目を失い失脚。おぬしは死刑であろうな」
掛「え、やだ」
内藤「何をうろたえておる、詐欺師が。心配するな。腹ふり党は存在するし、この藩にやってくる」
掛「え、それは」
内藤「滅んだからなんだというのだ。銭をやり、人を集めて腹をふらせ、腹ふり党と呼べば済むことだ」
掛「それって擬装…」
内藤「ああ、インチキだよ。そもそも腹ふり党じたい、ハナからインチキじゃねえか。もっと言うと、お前もインチキだし、俺もインチキだし、この藩だってインチキだろ。財政的、モラル的にとっくに破綻してる。(上を向いて)終わってんだよ!! だったら皆で力を合わせて世の中を変えればいいって? ふん、それがしんどいから “大丈夫、大丈夫” って慰めあって、だましだましやってんだよ! それに比べりゃ、腹ふり党をでっち上げるなんざ、たやすいこと。何ビビってんだよ! お前なんかインチキがきもの着て、刀さして、歩いてるようなもんだろ? しっかりしろよ、食い潰しの浪人がよ! 仕官して侍になるんだろ? どんな手使っても生き延びてやると思ってないと、お前なんか一発でやられちゃうんだよ。分かってんのか!」

 この「財政的、モラル的にとっくに破綻」し、「終わって」る「世の中」とは、荒唐無稽な弱小藩のことばかりでなく、私たちの住むこの平成日本を指しているのだ。いつか世界にディストピアがやってきてしまうという未来への警句ではない。今この時がまさにディストピアそのものであるという暗黒の現状認識が、この『パンク侍、斬られて候』を作ったチームを衝き動かしている。「お前たちは世界という名の腸のなかの糞でしかない」と突きつけられた一般民衆がかんたんに偏向思想に引っかかり、肛門から解放されて閉塞世界から脱出してやろうと「腹ふり党」の一員となり、裸でうれしそうに腹をふって踊りながら練り歩く。このみっともなく馬鹿げた集団こそ、私たちの自画像だ。

 この映画の真の冒険はしかし、以上の事柄でもない。真の冒険はポップでナンセンスな言語実験にある。夥しい量のナレーションが、登場人物のわずかな動きにも過剰な説明を充満させる。いったいどんな立場からのナレーションなのか、なかなか判然としないまま、時として染谷将太の演じる孫兵衛の心の声をも代弁し、自由間接話法的に「私の意識がとんでいる間に、いったい何が?」などと、気ままに第一人称を明け渡したりする。こんなアクロバティックな言語実験は、日本映画界でめずらしいことだ。また、あらたな固有名詞がナレーションで発せられた瞬間に逐次、野卑なタイポグラフィーが画面の両側を占有する。

 ナレーションおよびタイポグラフィーの滑稽さ、ナンセンスさは、じつのところむしろ冷たいリアリズムから発生している。ザック・スナイダーが『300〈スリーハンドレッド〉』(2007)で実践した、実写の全面的CG化(もはや実写はそこでは消極的なアリバイ以上のものではなくなっている)および過剰なナレーションによるストーリーテリングの無効化、単なるスペック説明としての映画という楽天的なシニシズム。このシニシズムと、『パンク侍、斬られて候』の暗い現状認識のもとでの変態性追及とはまったく正反対のものである。その後はアメコミ映画一陣営の総帥にまで出世したザック・スナイダーに対する痛烈な批判としても『パンク侍、斬られて候』を読み取ることができるのではないか。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『パンク侍、斬られて候』
全国公開中
監督:石井岳龍
脚本:宮藤官九郎
出演:綾野剛、北川景子、東出昌大、染谷将太、浅野忠信、永瀬正敏、村上淳、若葉竜也、近藤公園、渋川清彦、國村隼、豊川悦司
原作:町田康『パンク侍、斬られて候』(角川文庫刊)
配給:東映
(c)エイベックス通信放送
公式サイト:http://www.punksamurai.jp/

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる