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『鋼鉄の雨』は韓国版『シン・ゴジラ』か? 韓国映画に通底する“未完の近代”としての自画像

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 平昌冬季オリンピックを機に盛り上がる南北融和ムードのなか、平壌で行われた韓国芸能人らによる公演を観覧し、人気のK-POPアイドルと面会するなど、最近露出の多い北朝鮮の「三代目」、金正恩・朝鮮労働党委員長。4月27日には、三代目としては初となる南北首脳会談が予定されている。

 北朝鮮では歴代、最高指導者のことを公式な隠語で「一号」と呼んできた。たとえば労働新聞の一面を飾るその写真は「一号写真」と呼ばれる。絶妙なアングルで顔は映らないものの、明らかに実在の一号をモデルにしたに違いないその姿が登場し、「一号」、「一号」と連呼される韓国映画が登場した。2017年に韓国で公開された『鋼鉄の雨』(ヤン・ウソク監督)だ。

 クーデターによってひん死の重傷を負った「一号」とともに南へと脱出した北のエリート工作員(チョン・ウソン)が、核戦争の危機を回避すべく南の大統領府外交安保首席(クァク・ドウォン)と協力する過程で友情をはぐくんでいく、ポリティカル・サスペンスでありバディ・ムービー。昨年末に韓国で劇場公開されたのち、グローバル版権について独占契約を結んだNetflixを通じて、先月から日本やアメリカなど各国で配信されている。このようなテーマのこのような作品が、アメリカのグローバル資本がお金を出す韓国映画のウリなわけだ。

 時代背景や国際情勢が濃密に反映されつつもアクション満載のエンターテインメントで、エンディング・クレジットの映像はまるでマーベル映画。現実的な部分と非現実的な部分のバランスが絶妙だ。自省や主張を埋め込みつつ政治をエンタメ化する韓国映画の手腕には、いつもながら脱帽するしかない。

『シュリ』から20年を経て

 北朝鮮に対する太陽政策を掲げ、2000年に初の南北首脳会談をもたらした金大中政権時代に作られた1999年の『シュリ』(カン・ジェギュ監督)、2000年の『JSA』(パク・チャヌク監督)は、北朝鮮の工作員や軍人を「同じ人間」として描くことで、韓国映画における北朝鮮イメージの転換点となった(逆に言うとそれまでは、たとえとしてよく言われた「頭に角が生えた鬼」というイメージが、決して大げさなものではなかったのだ)。

 それから20年弱。金大中政権の路線を引き継いだ盧武鉉政権が倒れ、9年にわたる対北強硬保守の李明博、朴槿恵政権期を経て、核をめぐる緊張状態のもと、再び対北融和政策を取る文在寅政権となった2017年、韓国で公開されたのが『鋼鉄の雨』だ。

 『シュリ』では男女の愛情だったものが本作では男同士のバディになり、『JSA』ではチョコパイだった資本主義韓国の象徴が本作ではG-DRAGONになり、さらに北の「一号」を南北が協力して守るという設定に、20年を経た現在の韓国と、韓国映画のトレンドを感じる。

韓国映画が描く「未完の近代」とは

 監督の前作は、人権派弁護士時代の故盧武鉉元大統領をモデルにした『弁護人』(2013年)だ。主演のソン・ガンホはこれをきっかけに、当時の朴槿恵政権が密かに作成していた「文化人ブラックリスト」に載せられ、財閥系の大手製作会社が手がける作品から干されることになったと言われている。少なくない韓国映画人がそうであるように、ヤン・ウソク監督が現政権支持の立場であるのは明らかであり、本作で顕著なそのスタンスは、「民族主義左派」とでも呼べるようなものだ。

 多くの韓国映画に通底する共通の大きなテーマは、「未完の近代」である。彼らにとっての未完の近代とは、ひとことで言うといまだ成し遂げられていない真の独立、つまり自らの手による民族の自主権の回復だ。日本から見ると、わかりにくいかもしれない韓国の北朝鮮観の根底には、そのような意識がある。

 民族の同質性や共通性というより(もちろんそのような意識もあるが)、本来は北もわが国なのだ、という意識(それは北にとっても同じだろう)。そして、現在それを妨げているのはアメリカであり、かつてそれを妨げていたのは日本だという思い(そこには、「それを許してしまった」という悔悟や自省の念と、「自らの手で本来あるべき姿に正すことができるはずだ」という自信や誇りもにじんでいる)が、現政権とそれを支持する人々にはあるように思う。

 Netflixオリジナルの韓国映画第一号として、アジア人の視点でグローバル資本主義を描いた『オクジャ/okja』(2017年)を撮ったポン・ジュノ監督の『グエムル』(2006年)のテーマも、アメリカに妨げられた未完の近代としての韓国の自画像そのものだった。

 そのような人々が思い描く「統一」とはいかなるものか。日本で統一というと、東西ドイツのように完全にひとつの国になることを想像しがちだ。だが、現在の南北朝鮮にそれが可能だろうか。少なくとも短期的に、そして第二次朝鮮戦争(それは本作でも描かれているように間違いなく核兵器の使用をともなうものになるはずだ)のような代償を払うことなしに……。それは、南北双方の当事者たちが誰よりも一番よく知っている。つまり現実的な統一とはさしあたり平和的な共存であり、それを自らの手で成し遂げること。それが真の独立であり、未完の近代を手にすることでもあるのだ。

 現在、日本を「素通り」するかたちで激動する北東アジア情勢を解く鍵のひとつが、ここにあるのかもしれない。

      

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