物事の二面性と中間性を体現する『スリー・ビルボード』の衝撃

観客の心理操る『スリー・ビルボード』の衝撃

 同時に、本作『スリー・ビルボード』はコメディー映画でもある。監督作『ヒットマンズ・レクイエム』や『セブン・サイコパス』に共通するように、マクドナーは血みどろの暴力と狂気を、多分に皮肉を含んだ“英国的”ユーモアを持って描くという作家性を持っている。例えば『セブン・サイコパス』は、冒頭から過激な表現があるので、観客に暴力への心構えをする余裕が与えられるし、シリアスな状況や惨劇を、どんどん笑いに転換させていくという仕掛けになっていることも分かる。この作品は軽妙なタッチもあって、過激なコメディー描写が、そのままコメディーであると観客に伝わるように作られている。

 しかし『スリー・ビルボード』は、いかにも真面目な社会派の映画という雰囲気でスタートするのと、発端となる事件の悲劇性もあいまって、マーティン・マクドナーがいままでに暴力や狂気を含んだ過激なコメディーを撮ってきたという事情を知らなければ、本作がコメディー要素の強い作品であることに、すぐには気づけないようになっている。だから観客は、コメディーでしかあり得ないような、度を超えた過激表現に驚愕し、ふんだんに散りばめられたギャグに笑っていいのかどうか混乱させられ、心が激しく乱されることになる。そのギャグの性質も、今回は笑いを引き出そうとするものではなく、いつでもそこに深い悲劇性を纏わせ、何とも言えないバランスにとどめていることからも、監督は確信犯的に観客の心理を操ろうとしていることが分かる。高く評価すべきはその絶妙さであろう。これは、深刻な事件を不謹慎なコメディー表現を駆使しながら描いた、ベネット・ミラー監督の『フォックスキャッチャー』とも共通する試みである。

 分かりやすいカタルシスは与えられず、手放しで喜べるようなラストシーンも存在しない。だが現実とはそんなものである。人生はほとんどの場合、人類の歴史の途上より始まり、途上にて終わる。人間という存在自体にも、善い部分があり汚い部分がある。そしてこの映画は悲劇でもあり、コメディーでもある。本作が体現するのは、物事の二面性であり、中間性である。

 ある印象を強調しメッセージを伝えるために、作中の描写を一点に集約させるような、分かりやすい脚本の魅力というのも、もちろん存在するだろう。きれいに伏線を回収して物語を完結するという快感もあるだろう。だがそれを良しとして手法を先鋭化していくと、純粋な美しさはあるが、悪く言えば単色で無菌的な作品を目指すことにもなってしまう。ときに雑味こそが、全体を豊かな深い味わいに変えることがある。

 『スリー・ビルボード』は、ゆえに言語化するのが難しい作品である。だが、そういう割り切れない世界を見せ、言葉にできないような感情を与えることは、映画の大きな役割のひとつだと感じる。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『スリー・ビルボード』
全国公開中
監督・脚本・製作:マーティン・マクドナー
出演:フランシス・マクドーマンド、ウディ・ハレルソン、サム・ロックウェル、アビー・コーニッシュ、ジョン・ホークス、ピーター・ディンクレイジ、ルーカス・ヘッジズ
原題:Three Billboards Outside Ebbing, Missouri
配給:20世紀フォックス映画
(c)2017 Twentieth Century Fox
公式サイト:http://www.foxmovies-jp.com/threebillboards/

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