人間はみなひとりぼっちーージョージア映画『花咲くころ』が彩る“生のありよう”

 しかしながら歌と踊りは、エクフティミシュヴィリ+グロス作品にあっては、問題の探究のほうに近い。女性讃歌を朗々と謳い上げる男声合唱をよそに、女性たちはほとんどその美声に聞き耳を立てていない。「女性は素晴らしい」などと褒めそやされても、それは男の側の身勝手な言い分であって、彼女たちにはまともに受け取れるものとして響いてこないのだ。『マイ・ハッピー・ファミリー』の祖母が吐き捨てるように言うセリフ「夫とは一度としてわかり合えたためしはない」「なぜ夫が怒っているのか理解できたことがない」ーー女性と男性の生のありようはどこまで行っても交わらず、たがいの賞讃や愛の表明は一方通行にすぎないものなのか。14歳ヒロインのエタが親友ナティアの結婚式(それは誘拐の果ての恐喝婚である)で舞踊を披露して出席者の喝采を受けるが、観客の心を揺るがさずにおかない素晴らしいその舞踊は、「シャラホ」という男性商人の祝宴の振付だ。ワインに酔った客たちは、そのぶしつけなジェンダー越えをだれも咎めない。しかし、エタはここにいる客全員に対してナティアの結婚に「NO」を、みずからの肉体の躍動によって表現したのである。

 「一度としてわかり合えたためしはない」ーー結局のところ、エクフティミシュヴィリ+グロス作品にあって、人間はみなひとりぼっちである。それは家庭にあってさえ。濃厚な血縁社会でがんじがらめとなり、個の自由が利かない環境をいったん解きほぐすためには、家族でさえも解体されねばならないのかもしれない。日本映画にせよ、アメリカ映画にせよ、最近の映画界はファミリー第一主義の一辺倒である。「家族こそ一番」、このだれにも逆らえない真実を、事と次第によっては選ばないという選択があってもいい。「言い争うこと」「飲むこと」「歌うこと」「踊ること」。ジョージア映画の伝統の延長線で語られうる本作の行動の集積が、最終的に「離反すること」であったとしても、それは悲劇とは言えない、とりあえずは。今は孤独者になる、独身者になる。『花咲くころ』にしても『マイ・ハッピー・ファミリー』にしても、登場人物たちは何かというと洗面室に立てこもる。彼ら彼女たちの魂の叫びは、洗面室の狭い空間で最大音量となっている。『花咲くころ』と『マイ・ハッピー・ファミリー』、この多幸的なタイトルは、反語である。花咲く春の季節ではあるが、戦時下である。家族ではあるが、バラバラである。そういう諦念による反語としてタイトルがいったん措定され、やがてその咀嚼の帰結として反転し、「嘘から出た実(まこと)」として起ち上がってくるにちがいない。

 「言い争うこと」「飲むこと」「歌うこと」「踊ること」そして「離反すること」。本作を彩る生のありようは、これで終わらない。彼らが経験してやまないのは、雨に「濡れること」だ。湿潤温暖なジョージアにおいて突然降り出す驟雨。どこか日本列島のそれにも似た激しい水滴が、彼ら彼女たちの衣服を、黒髪を、教科書をびしょびしょに濡らしてしまう。天候の変化によってびしょ濡れになる彼らの姿は、彼らの変容の予見である。雨が大地を濡らし、豊かな農作物を育む。この映画にあって、人々もまた農作物に見える。不出来だったり、形が悪いものもあるが、それらすべてが農作物だ。雨に打たれて彼らも何かに変わる。農作物として「濡れること」の映画。芳醇なワインのような豊かさをたたえた映画……。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『花咲くころ』
岩波ホールほか、全国順次公開中
監督:ナナ・エクフティミシュヴィリ
共同監督:ジモン・グロス
出演:リカ・バブルアニ、マリアム・ボケリア、ズラブ・ゴガラゼ、ダタ・ザカレイシュビリラド、アナ・ニジャラゼ
(c)Indiz Film UG, Polare Film LLC, Arizona Productions 2013
公式サイト:www.hanasakukoro.com

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