『光』大森立嗣監督が明かす、映画作りの姿勢 「単純な足し算になるのは嫌」

 大森立嗣監督最新作『光』が現在公開中だ。三浦しをん原作の同名小説を映画化した本作は、25年前に東京の離島・美浜島で起こった殺人事件の当事者である信之、美花、輔の3人が再会したことによって、過去の罪と向き合う模様が描かれる。ジェフ・ミルズの強烈な音楽と大森立嗣監督、三浦しをんの才がぶつかり合った異色の日本映画となっている。

 リアルサウンド映画部では、大森立嗣監督にインタビューを行い、監督として映画作りを行う際に心がけていることや、ジェフ・ミルズに音楽を依頼した経緯などについて、話を聞いた。

「自分へのチャレンジでもあったし、映画へのチャレンジでもありました」 

―「原作小説を映画の脚本にすることは、原作に対する批評だ」と、脚本家の荒井晴彦さんが以前話していました。大森監督もそういった考え方を抱いていたのでしょうか。

大森立嗣監督(以下、大森):「批評」と言われれば確かに批評をしているとも言えるのですが、どちらかというと自分が読んだときに何を感じたのか、その感覚を優先して作っています。最初に読んだときの印象が強くある作品であればあるほど、脚本をしっかり書けるというのはあります。

―原作を読んだとき、最初にどんな印象を?

大森:瑛太が演じた輔は、非常に人間らしい弱さをもったキャラクターだと感じました。一方で、新が演じた伸之には、人間味がない殺人鬼としての怖さがあった。そして、その殺人鬼を肯定するような気配が小説には漂っていて、そこに「光」を当てるべく話を進めている。「三浦しをん、なんて恐ろしいんだ!」と思いました。

―新さんの恐ろしさと瑛太さんの無邪気さ、ふたりの配役が絶妙です。脚本を執筆している段階でイメージしていたのでしょうか。

大森:脚本を書く時に当て書きはしていません。ふたりが自分だけのものにしてくれました。これはどの作品にも共通しているのですが、役者さんにはその役の代わりは誰もいないというふうに、自分で脚本を解釈して芝居をしてもらいたいんです。脚本があり、言うべきセリフが決まっていても、その言い回しやセリフの行間に漂うもので、その人にしかできない演技になっていく。

―輔を演じた瑛太さんはいつになくハイな演技をしていて笑い方も非常に特徴的でした。あの辺は演出のイメージ通り?

大森:脚本に細かく書いてある部分もあるし、瑛太君から出てきた部分もありました。輔が伸之と再会するシーンも、「ぎゃはは」といった感じの笑い方をしていますが、僕が意図したものとはちょっと違ったんです。そして信之を演じる新君の演技も素晴らしかった。ふたりがお互いに声色や視線に反応しながら演技を作っていってくれました。それならOK、ということの繰り返しでしたね。

―ジェフ・ミルズを音楽に起用したのは、かなり意外でした。どんな経緯だったんですか。

大森:脚本を書き終え、キャスティングが決まった時点で音楽をどうしようか考えました。比較的トーンが近い『さよなら渓谷』の時のように弦楽器をベースにしたものにすれば収まりがいいだろうとは思ったんですが、同じことはしたくなかった。そんなとき、大駱駝艦の舞台を通じて聴いていたジェフさんの音楽がパッと頭に浮かんで。どんな形になるかは想像も付かなかったんですが、きっと面白くなると思って依頼をしました。

―実際に彼から音楽が仕上がってきたときの印象は?

大森:最初に聴いたときは「驚いた!」の一言です。映画における音楽の使い方は、登場人物の感情を説明するものや、情感をつけるようなものがほとんどだと思いますが、今回はまったく違う意味で音楽を付けたかった。自分自身、どんな化学反応が起きるか想像もつかず、自分へのチャレンジでもあったし、映画へのチャレンジでもありました。映画を観ていて困ってしまうお客さんもいると思います(笑)。この映画を作る時、人間の生命力に迫りたいという意識がありました。それがジェフさんに音楽を依頼した理由でもあります。

―本作を音楽がまったくない状態で観たら、印象が180度変わるぐらい強烈な存在感を放っています。

大森:脚本として物語が出来上がっていても、役者の芝居や、その日の天候など、現場で常に変化していくのが映画だと思っています。そして、音楽を付けると印象がまったく異なるのも映画です。だからこそ、ジェフさんの音楽を重ねたときに、自分の中でも新たな発見がありました。音楽の効果も相まって、伸之を演じる新君が“宇宙人”のように思えた瞬間があったんです。そういった発見を重ねながらこの作品は出来上がりました。

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