地下アイドル・姫乃たまの『ナラタージュ』評:全ては終盤のラブシーンのために

姫乃たまの『ナラタージュ』評

 何度読んでも、話を思い出せない小説があります。何度も読み返すほど気に入っているのに、読んでいる時と、読み終わった後の心地よさだけを覚えていて、内容に関する記憶はぼんやりしているのです。『ナラタージュ』はまさにそんな一冊でした。表紙を見るたびに、読んでいる時のよい気持ちが湧き上がってきて、どんな話だったっけともう一度手に取ります。

 これは決して、お話の印象が薄かったとか、つまらなかったということではありません。文体がきれいな、すごく静かな小説で、うっとり読んでいると、いつのまにか自分自身の経験や感情の波に流されてしまうのです。いい音楽や、本は、いつでも私を作品よりも、私自身と向き合わせてくれます。好きなはずの本ほど内容を思い出せないのは、そのせいでしょう。

 『ナラタージュ』についてうっすらと覚えているのは、主人公の工藤泉が大学の友人と飲み会をするシーンです。恐ろしいことに私は、映画を観るまで、彼女が心を寄せていた高校時代の恩師(葉山先生)との思い出を回想するという話の大筋すら忘れていました。それよりも記憶に残っていたのは、気のおけない友人たちとの楽しげな集まりと裏腹に、会話のはずみで恩師のことを思い出して心を揺さぶられている主人公の孤独感だったのです。

 私が『ナラタージュ』を初めて読んだのは、中学校の図書室でした。この本が出版されてすぐのことです。休み時間は、校庭で遊んでいる生徒たちの声が聞こえてくる図書室で、いつも本を読んでいました。図書室は私にとって避難所でしたが、心が休まる一方で、ここにしか居場所がないことを思うと、ものすごく鬱屈とした気持ちになりました。本に出てくる経験したことのない友人たちとの飲み会や、この生活からの救世主になってくれるかもしれない年上男性との恋愛に、中学生の私は思いを馳せていたはずです。

 飲み会のシーンが記憶に残っていた理由はそれだけではありません。校庭で遊ぶ生徒の声を聞きながら本を読んでいると、周囲が楽しそうな時でも、いつも悪い予感がしている自分の心が浮き彫りになりました。それは具体的な不安であることも、どうせ人生はよくならないだろうという漠然とした悲観的な気持ちであることもありました。恐らくその精神状態が、工藤泉の孤独感と強く重なったのだと思います。彼女もまた、葉山先生の準備室を学校生活の避難所にしながら、心にはいつも不安のさざ波が立っていました。

 どうして『ナラタージュ』は、10年以上の時を経たいま、映画となって私たちの前に現れたのでしょう。

 映画館でまず驚いたのは、物語の中盤まで主人公の工藤泉が有村架純で、葉山先生を松本潤が演じているのに気づかなかったことです。朝ドラの主演女優と、名実ともに国民的アイドルグループである嵐のメンバーを、「なんか見たことある人だな」と思って途中まで見ていたのです。

 野暮ったいメガネや、ズボンにしまわれたシャツや、寝癖がついたままの地味な髪型にしているだけでなく、松本潤自身がつかみどころのない葉山先生を静かな熱意で演じきっていました。有村架純もまた、大人しく、大人びていて、恋愛経験が少ない工藤泉を、ラブシーン経験の少なさを活かして自然に演じています。

 雨がよく降るこの映画は、水の音がいやでも耳に届くほど言葉少なく静かで、時に激しく波を打ちますが、掴もうとすると指の間をするすると滑り落ちていきます。葉山先生が途方もなくなって咽び泣いたり、工藤泉が嫉妬で激しく怒ったり、互いを理不尽に憎しみ合うか、あるいは何もかもを捨てて強く抱き合ってもおかしくないシーンで、そのどれもすることがなく、二人はうつむきながら、冷たい風が吹く海辺をぽつぽつと歩きます。

 この何も押し付けてこない透明な映画を前にした時、観客は自分自身の経験と、そこから想起される感情の波に流されるしかありません。この映画の感想は、見る人の経験の違いによって、全く異なると思われます。

 個々の感想以前に、この映画が恋愛映画か否か議論されているのは、この映画が正統な恋愛映画だからでしょう。そう言えばこの頃、恋愛映画をとんと観なくなりました。なんというか、予告を見る限り賑やかな作品が多くて、笑いどころがわかるようにたくさんテロップや効果音を入れてくれているバラエティ番組と同じような印象を受けるからです。それが悪いというわけではないのですが、そこで提示される恋愛の正解に共感できない自分は、お呼びでないような気持ちがしてしまうのです。

 恋愛はいつでも予測不能で、楽しい時も、辛い時も、突然やってきて、それが去った後に「楽しかったな」「辛かったな」と気づくものだと思います。恋した相手の存在について、冷静に思いを巡らせることができるのは、それよりもっと後のことです。

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