人間は生きる価値がない存在なのかーー『猿の惑星:聖戦記』が暴く、人間の傲慢な意識

小野寺系の『猿の惑星:聖戦記』評

人類は生きる価値がない存在なのか

 それでは人間は、滅びなければならなかった邪悪な存在に過ぎないのだろうか。振り返ってみると本シリーズは、人間をただエイプを差別し攻撃する「悪」としてのみ描いていたわけではなかった。それぞれの作品で猿に同情する人間は必ず存在していた。第2作において、シーザーがコバに「お前はもうエイプではない」と突き放したように、エイプのなかにも好戦的な悪は存在していた。つまり、本シリーズは猿も人間も、「善い者もいるし悪い者もいる」というシンプルな原則に貫かれているのだ。

 ではエイプをエイプたらしめているものは何なのか。人間を人間たらしめているものは何なのだろうか。それは、他者を思いやる心であり、お互いの違いを認め合う心ではないのか。そしてそれはエイプも人間も、そして他の生物であっても共通の精神であるはずだ。もし人類に生きる価値があるのだとすれば、その一点に尽きるのかもしれない。それを失っていくことで、人類は自滅の道をたどっていく。本作で描かれた善良な「エイプ」たちは、人間の「善性」の象徴でもある。なぜなら1作目において、子どもの頃のシーザーに愛情を与え、正しく生きる道を教えたのは、他ならぬ人間であったからだ。つまりエイプの勝利は、人間の善の勝利でもあるのだ。

 三部作を見続けてきた観客のなかで、もはや彼らを下等な存在だと見下す者は、ほぼいないだろう。年輪が刻まれたシーザーの顔は、もはや「人間味」と呼ぶことすらおこがましい、エイプの民族を代表する尊い美しさを見せる。数々の苦難をくぐり抜け、すべてをやり遂げた者の表情である。

 ちなみに本作は、そのような遠大なテーマや過激な神話を構築しながらも、娯楽映画であることを忘れていない。シーザーたち一行の流浪の旅は西部劇のように、また猿の一族が捕らえられて逃げ出そうと画策する部分は脱獄映画として楽しめる。それはあたかも、ドイツ軍に捕まったアメリカの捕虜たちが、クリスマスの夜に地下通路を掘って収容施設からの脱出を図るという、ビリー・ワイルダー監督の『第十七捕虜収容所』のようである。本作もまた、この作品のように、愛情とユーモアがつまった映画になっている。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』
全国公開中
監督:マット・リーヴス
出演:アンディ・サーキス、ジュディ・グリア、ウディ・ハレルソン
配給:20世紀フォックス映画
(c)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation
公式サイト:http://www.foxmovies-jp.com/saruwaku-g/

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