木村拓哉は“生まれ直しの旅”を終えたーー総決算となる『無限の住人』の演技

 SMAPが、ある種の諦念とともに活動してきたグループだとすれば(彼らは日常を肯定する歌を歌い続けたが、その楽曲の底辺には常に平常心の諦念が横たわっていた)、木村拓哉は孤独に、生まれ直しの旅を継続してきた俳優と言える。

 「孤独に」と付け加えないといけないのは、彼を溺愛するファンを別にすれば、「キムタクは何をやってもキムタク」という何も言っていないに等しいにもかかわらず、何かを言った気になれる魔法の言葉(他の俳優に対しては決して口にはしないが、木村には言ってもいいと勘違いできる呪文)に加担する無責任な輩(その人たちは、その人たちなりに、木村拓哉が好きで好きでたまらないだけなのだろうが)が想像以上に多いからである。

 木村は、無為な言説を決然と無視するかのように、生まれ直しを繰り返してきた。とりわけ、ここ数年は、ひとつの作品の中で生まれ直すシチュエーションが続いている。『安堂ロイド〜A.I. knows LOVE?〜』では、天才学者と彼が作り出したアンドロイドの二役に扮し、最終盤ではまったく別種のキャラクターとキャラクターとを同一画面の中で鮮やかに接続させた。『アイムホーム』では、事故で人格が一変した主人公のアッパーな過去とシャイな現在を演じ分けつつ、ペルソナ(仮面)という命題に立ち向かった。さらに13年ぶりに連続ドラマとして復活した『HERO』への帰還も、広義の意味で生まれ直しと言えるだろう。

 映画『無限の住人』は、これら連ドラでの生まれ直しの総決算と呼べるものである。

 木村が扮する万次が身にまとう白と黒のツートーンの着物が、この俳優の試みを示唆している。冒頭のモノクロシーンには、両目の万次がいる。彼は激戦の果てに倒れるが、謎の老婆によって強制的に不死身にさせられた瞬間、画面はカラーとなり、以後、片眼の万次として無限の時間を生きることになる。そう、これは、両目の万次が、片目の万次に転生する物語なのである。そこには、『安堂ロイド』や『アイムホーム』がそうだったように、ツートーンのキャラクターが存在する。とりわけ、本作ではモノクロ/カラーという、誰の目にも明瞭なビジュアル上の区分けがある。

 斬って斬って斬りまくるというのは、宣伝文句の次元を超えて、本作の根幹を成すものだ。ドラマの合間に闘いがあるのではなく、闘いの合間にドラマがある。だから、いわゆる芝居場は極端に少ない。だが、それだけに、ツートーンの人物像の印象の違いは明白だ。

 両目時代の万次には、人斬りとして最愛の妹の夫を殺してしまった過去があり、それゆえに顔面には、後悔の震えが貼りついている。その顔を凝視すると、いつか、この妹を喪ってしまう不安と畏れが浮かび上がる。彼の深層心理にある悪しき予感は見事的中し、妹は惨殺されてしまう。

 白黒画面の中央でやおら立体化する、グラグラとした魂の震え。それを体現する木村拓哉は新鮮で魅惑的だが、カラーの世界に転生した片目の万次には、この震えが一切ない。ある意味、はっきりと別人格として、そこにいる。そもそも演技のアプローチがまるで違う。

 片目となり、カラー化した万次は、妹にそっくりな少女に、仇討ちのための用心棒を頼まれ、引き受ける。亡き妹への想い、と言えば聞こえはいいが、要するにシスターコンプレックスだ。片目の万次はもはやそのことを隠そうともしない。「めんどくせえ」と一応うそぶいてはみせるものの、ツンデレどころではなく、単なるデレデレである。

 眠っているとき、ひとのこころは最も無防備になると言うが、カラーの万次は、モノクロの万次がみた夢なのかもしれない。こうでありたい自分が、そこでは具現化されているようにも映る(万次に木村拓哉そのひとを二重写しにするならば、倒錯はさらに深まるだろう。カラー化された万次は、木村拓哉が望んだ「こうありたかった自分」なのかもしれない。つまり、「現実世界=パブリックイメージ」においては、こうではなかった)。

 カラーの万次には、いい意味で揺らぎがない。構えが低く、カラッとしている。モノクロの万次が陰影に富んだ人物だったとすれば、カラーの万次はベタな人間である。木村拓哉はあっけらかんと、ツートーンをツートーンとして峻別している。

 より注意深く見つめるなら、この転生からは、ステレオだったサウンドが、モノラルに変幻したような飛翔が感じられる。ステレオ録音は奥行きと味わい深さを聴く者にもたらすが、モノラル録音には単純さと力強さがある。『無限の住人』の活劇性は、多種多様な殺陣のありようだけにあるのではなく、木村拓哉が織りなす人物の「音響/サウンド/バイヴレーション」の変化にもあるはずだ。ステレオでイントロを奏でていた楽曲が、いきなりモノラルに転び、その勢いのまま疾走していくとしたら……音楽としてこんなに痛快なことはないだろう(片目というのはつまり、スピーカーがひとつしかないという暗喩でもある)。

 木村はわたしのインタビューに、演じるということは、海外に宿泊する「期間」のようなものだ、と答えたことがある。また、そこは演じるキャラクターと共同生活する「宿泊施設」だと形容もし、自身がキャラクターの「宿」かもしれないと語っている。つまり、役と一緒に泊まっているし、役を泊めてもいる、というわけだ。彼は『無限の住人』で、ふたりの万次と一緒に泊まり、ふたりの万次を彼自身の体内に泊めたのである。

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