川口敦子の『ミューズ・アカデミー』評:ホセ・ルイス・ゲリンと濱口竜介がみつめる現代映画の焦点

 『シルビアのいる街で』で注目したい現代監督の最前線に躍り出たスペインの気鋭ホセ・ルイス・ゲリン。その新作『ミューズ・アカデミー』は、あらあらあらと観客を思いがけない方へと自在に振り回す話術の妙をそくりと差し出しにんまりとさせてくれる。

 虚実の境目に繊細かつ果敢に切り込むゲリンの映画の闘志の底に、ぽっかりと居すわっている茶目っ気のようなものがやわらかに効いて観客を心地よく彼の世界に巻き込んでいく。

 アーティストを創作へと駆り立てる女神ミューズをめぐって喧々諤々の議論が展開される階段教室。大学の溌剌とした授業の光景で『ミューズ・アカデミー』は幕をあげる。

 

 ダンテとベアトリーチェ、騎士ランスロットと王妃グィネヴィア、アポロンとダフネ、はたまたオルフェウスとエウリディケと、古典を彩るカップルの名をちりばめつつ件の命題を掘り下げる教授と教え子たち。彼らの真顔の討論を追いながら、いかにもさらりと涼しい顔で映画はえ、そうなるの?!――な展開を挿しはさんでもみせる。

 ミューズとは“平たく言えば男子をその気にさせる女子のこと”とばかりに教授を相手に実践に挑む教え子数名。冷やかに醒めた目で現実を見すえ切り返す教授の妻。

 気づいてみるといくつかのえ、え、え、、、の果てに映画は学究肌の面々の閉ざされた世界をまんまとはみ出し、素敵に微笑ましい下世話の領域へと踏み入ってしまっている。懐かしくも涙ぐましい男と女のほろ苦い居心地悪さを鮮やかに掬いとって、銀幕のこちら側でも思わずふっと周囲を見廻してみたい気にさせる。

 

「ロマンチック・コメデイ? それとも哲学的ディベート?」(インディワイヤー誌)

 そんな見出しを掲げる評が飛び出すのもなるほどと頷ける奥行を愉しみつつもう一歩、先を見てみると『ミューズ・アカデミー』を支える言葉の渦巻きの中で言葉にされない人の思いを雄弁に語る人の表情、あるいは聞く人の顔、しぐさこそがみごとに迫ってくる。言葉にされない言葉、言葉としてそこにない言葉が物語を生む。その意味で、お喋りな映画と短絡的に形容したくもなるゲリンの新たな快作は、殆んど台詞なしで紡がれた『シルビアのいる街で』の世界の対極にあるかに見えながら、実はむしろ近い所に位置しているのだと気づく。

 6年前に出会ったひとりの女性との未然形のロマンスの記憶に導かれ国境の街ストラスブールを再訪する青年。もはやここにない現在/過去を求める彼の旅は予め失われた恋の亡霊、幻影を追うそれとならざるを得ない。そこにいない影の生む物語。シルビア(というミューズ)のいる/いない街で繰り広げられる視線の冒険。それが見ること/思いを映すこと、錯誤と背中合わせの眼差しの真実を探る映画『シルビアのいる街』を結実させる。

「ミューズ、それはつまり私たちの”投影”によって存在する女性」(『ミューズ・アカデミー』チラシより 監督の言葉抜粋)

 見ることについての映画、映画というものについての映画、虚実の境界への働きかけ。監督ゲリンの探求の核心をそんなふうにミューズをめぐる新旧2本に改めて確認すると、フレームの選択ひとつで赤の他人がカップルとみえてくる『シルビアのいる街で』のカフェの場面で示された物語“捏造”の仕組が、『ミューズ・アカデミー』の階段教室に陣取る学生たちの顔、顔、顔の切り取り方に敷衍される様も見逃せなくなってくる。あるいは路面電車で「人違い」と告げられた『シルビア~』の青年の目に外の世界がなだれ込む瞬間。影が消えて猛然と回復される現実の感覚。光。風。生活の音。時間。行き過ぎる路面電車。窓。そこにまた「シルビア」を見て、現実が物語を呼び覚ます――。そうした現実、世界の影は『ミューズ・アカデミー』で人と人のいる時空を切り取る窓(映画の一コマ、スクリーン/銀幕ともいえる)にも濃やかに映りこんでいる。交錯する虚構と現実、物語が現実に投げ返される仕組がここにもまた息づいている。

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