松江哲明の“いま語りたい”一本 第12回

松江哲明の『ヒッチコック/トリュフォー』評:ヒッチコック映画の魅力伝える“友情物語”

 子どものころ、図書館の映画コーナーにある一番目立っていた大きい本、それが1966年(日本では1981年)に刊行された『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』でした。初めてこの本を手にとったときは、ヒッチコックの名前は意識していませんでしたし、当然内容も理解できない。でも、本の中に掲載されている映画の場面写真が格好良くて、よく眺めていたんです。思い返してみると、編集室を覗き見ている感じだったでしょうか。今のようなパソコンでの編集ではなくて、編集機材のスタインベックが置いてあって、部屋の隅には断ち切ったフィルムが転がっているようなアナログな編集室のイメージ。『映画術』はその名の通り、「映画ってこうやってできているんだよ」と最初に教えてくれた本だったと思います。

 映画『ヒッチコック/トリュフォー』は、『映画術』の映像化ドキュメンタリーで、錚々たる映画監督たちが自身と『映画術』の出会いについて語っています。ドキュメンタリーの作り手として観ても、『ヒッチコック/トリュフォー』の構成は素晴らしいと思いました。本作には二つの側面があります。一つ目はヒッチコック映画の魅力を存分に知ることができること。二つ目はアルフレッド・ヒッチコックとフランソワ・トリュフォーの友情物語であるということです。

ヒッチコックの作品はリトマス試験紙みたいなもの

 まずはヒッチコック映画の魅力について。僕らの世代は、子どものころに当たり前のようにテレビでヒッチコックの映画を見ることができました。『北北西に進路を取れ』、『サイコ』、『鳥』、『裏窓』は何回も放送していましたし、『ヒッチコック劇場』もありました。どれも、名作という意識で観るんじゃなくて、たまたまやっているから観たという感覚で。今は、レンタル屋に行けばズラッと揃っていますし、観る手段はいくらでもあると思うんですが、不意にヒッチコック作品に出会ってしまうという経験はできないんですよね。どうしても“名作”として出会ってしまう。思いもよらないタイミングで事故のように観ると、ヒッチコックの映画は本当に面白い映画なんですよ。まぁそれはヒッチコックに限った話ではないんですけど。

 ヒッチコックの中で一本挙げるとすると、僕は『サイコ』。神がかっているというか、映画自体がヤバイものになっていますよね。昔、ホラー映画の恐いシーンだけを集めて放送する番組がありました。『スキャナーズ』(デヴィッド・クローネンバーグ)の頭が吹っ飛ぶシーンとか(笑)。その中に、『サイコ』のワンシーンがあったんです。ノーマン・ベイツがカツラを被った女装姿で襲ってくる。その姿がもう怖くて怖くて。夜中、トイレに行くのを躊躇したことを覚えています(笑)。

デヴィッド・フィンチャー

 初めて観たときは無意識的なものとしてその“恐さ”を感じたんですけど、思い返すと、その恐さはヒッチコックの緻密な計算によって作られていたことが分かりました。本作でも、ヒッチコックが多用していた“神の視点”による俯瞰ショットについての分析がされていますが、わずか数秒の映像でその凄さがよく分かります。映画の面白いところはそういうところなんですよ。なんであのシーンで恐さを感じたんだろう? なんであのシーンが印象に残っているんだろう? それを思わせる映画は、はっきりとした作り手の思想がそこにあるからなんですよね。そうすると、このシーンを構成したヒッチコックは何者なんだろう?とまた考える。ヒッチコックの作品は、映画をどう観るかのリトマス試験紙みたいなものだと思っているんです。ヒッチコックの映画を観て、「あー面白かった、怖かった」で終わる人は普通の人で、観た後に「なんか変だったぞ」と気付いてしまうと、その人はもう映画の沼から抜けられなくなります(笑)。そういった映画を紐解いていく楽しさを、監督たちのコメントとともに本作は教えてくれます。

 登場するマーティン・スコセッシやウェス・アンダーソン、黒沢清さんほか10人の映画監督たちは、ヒッチコックの作品を語ってはいるんですけど、結局のところは自分の演出方法について語るんですね(笑)。監督たちの個性をよく表していて、その姿が面白い。デビッド・フィンチャーは『めまい』について、「変態の映画だ、美しい変態だよ」とコメントしていますが、彼が何を考えて『ゴーン・ガール』を撮っていたのかが何となく分かりますよね(笑)。コメントをもらう相手を、制作を共にした当時のスタッフやキャストではなく、現役の映画監督たちにしたのは大正解だったのではないでしょうか。

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