宮台真司の『二重生活』評:あり得たかもしれない演出を考えることで、普遍的寓意へと到達できる

宮台真司の『二重生活』評

ファンタズム批判が現実化すると精神を失調する

 先に荒木経惟に関する記述を自家引用しましたが、そこでは《街で偶然見かけた見知らぬ女をこっそり尾行するだけで得られる、その女の見知らぬ関係性自体ーー誰に会い、どこへ向い、何に手を触れるのかーーが醸しだす底知れぬエロス》がアートとなる可能性を賞揚していました。

 近代のアート概念は初期ロマン派のもので、[離陸・渾沌・着陸]の通過儀礼図式に擬えれば、疲れた心身をほぐして元に戻す娯楽=リクリエーションが離陸面と着陸面を同じくするのとは違い、アートは、渾沌(アート体験)を経た後、同じ離陸面に着陸することを不可能にするものを言います。

 荒木作品が開示する渾沌体験は、「無害な概念=リアリティ」から引き剥がして僕らに「酷薄な偶発性=リアル」を突き付け、文字通り元に戻れなくするとい意味で、紛うことなきアートでしょう。しかし、その渾沌体験が現実に与えられると、若年者の多くが精神的失調を来してしまうのでした。

 そこでは、ツーショット・ダイヤルのサクラ嬢をする女子大学生らが精神的失調を来すのと同じメカニズムが働いています。リアリティ(言語的なファンタズム)の向こう側にあるリアル(言語化不可能な規定不能性)に対する免疫がないので、リアリティを生きられなくなるのです。

 「隣の女の子(篠山紀信)が、会ったばかりの見知らぬ男の前で大股開き(荒木経惟)してるぜ」という突き付けは、77年以降の「性愛の時代」が、<関係性モデル>ないし記号的ファンタズムによる偶発性遮断に支援された「見たくないものを見ない営み」である事実を鋭く批判したものです。

 『サブカルチャー神話解体』は、記号系的ナンパ系を批判する渾沌系的ナンパ系の各種表現が、92年の執筆段階で急速に衰退しつつあることを記録し、批判の衰退を、批判しています。そこで批判されているのは、表現ではなく、表現の受容者である「我々」であることを、確認しておきます。

 実際、写真表現に於いては、「隣の女の子(篠山紀信)が、会ったばかりの見知らぬ男の前で大股開き(荒木経惟)してるぜ」という煽りを享受できても、現実の性愛生活に於いては、こうした煽りを実践してなおも<自己のホメオスタシス>を安定させられる者は殆どいなかったという事です。

精神の失調を招き寄せるメカニズムの実態

 街の中を歩いたり電車に乗ったりすると周りに知らない人が大勢いますが、それは全て書割の中の影絵です。影絵は、歩行者だったり乗客だったり、学生だったり会社員だったりします。それだけじゃない。恋人や妻や夫も、多くの場合、書割の中の影絵、つまりファンタズムです。

 それを意識せずに来たのが、当時のテレクラや伝言ダイヤルやダイヤルQ2にアクセスすると、全ての人に、親しき者を含めて誰も知らない、関係性や思いがある事実が分かるのです。但し、90年代に入る迄これら出会い系には援助交際が殆ど存在しなかったことを知らなければなりません。

 そこでは、カネではなく会話だけが、性交以外に享受可能な快楽でした。そこでは互いの<なりすまし>ぶりが詳細に開示され、それゆえに<なりすまして>いる各自が謂わば許し合うことで癒されたのです。80年代後半のこうした初期出会い系の雰囲気は今日ではどこにもありません。

 だからこそ当時、「どんな人にも、知らない関係性がある」という当然の事実や「電話を取るのが1秒遅ければ別の人と繋がって別の関係性が展開したはず」という<関係の偶発性>に晒されると、自分が<関係の偶発性>の海に浮かぶ筏の如き存在だと意識され、リアリティが変性したのです。

 これまで立っていた地面が急に液状化したような感覚に襲われ、若い女であれば、男たちの誘いを断る理由を失って、不特定の男たちと関係を重ねるようになります。これは当時としては「必然的な」と言いたくなるほどよくある展開でしたが、立ち直りにはかなり時間がかかりました。

 僕自身が80年代半ばから「11年間のナンパ地獄」と自称する状態に陥ったのも、今紹介したのと同じような展開だったように思います。だからこそ、「崩れる理由」も、「立ち直りに時間がかかる理由」も、自分自身の体験としてよく分かります。では、なぜ崩れ、立ち直れなくなるのか?

 色街での作法通りの非日常的祝祭が日常に戻るためのものであるのとは違って、言葉で出来上がった「書割と影絵からなる日常」の方がむしろファンタズムであり、アンリアルだと体験されるからです。<関係の偶発性>のただならぬ揺らぎに満ちた海こそが、リアルだと体験されます。

 昨今の人類学の成果を踏まえて『LOVE【3D】』を論じた際にお話ししたように、<関係の偶発性>のただならぬ揺らぎに満ちた海こそがリアルで、定住社会の秩序を成り立たせるための<なりすまして>生きるファンタズムこそがアンリアルだ、という認識は、完全に正しいのです。

 こうした<関係の偶発性>の海に沈んだ者のうち一部が、相当な時間を経て、様々な経験を積み重ね、覚悟が定まることで、<なりすまし>という形でやっと「日常に戻れる」ようになります。但し、僕の親しかったナンパ師たちや女たちを振り返ると、「戻れる」のは少数に留まるのです。

尾行経験を通じてナンパ地獄から回復した

 冒頭の『サブカルチャー神話解体』からの引用に、尾行のことが記してあるのは、そうした覚悟を定めるのに、尾行という経験が役立ったからです。少し説明します。僕は大学院生の当時、テレクラが切り開いてくれた、<関係の偶発性>とリアリティの反転に、強く魅了されていました。

 しかしやがて反転したリアリティから戻れなくなり、モノガミーに限らずステディの関係を作れなくなります。どんな女にも裏があるんだという感覚が、信用や信頼を難しくした面もあるけど、「書割の中の影絵」というアンリアルなイメージがコミットメントを難しくしたことが大きい。

 一つの転機は『サブカルチャー神話解体』連載中(1992年頃)の偶然の目撃譚です。当時の渋谷には、円山町とは別に桜ヶ丘の現在インフォスタワー(1998年~)が建つ付近にも小さなラブホ街がありました。当時は人通りが少なく、人目を忍ぶ人妻や芸能人たちが利用していました。

 偶々僕が出入りした際、各々ステディの彼氏彼女がいる知り合いの院生女子と院生男子が手を繋いで歩く後ろ姿を見つけ、気づかれないように尾行したところがラブホテルに入って行ったことがありました。それを誰にも黙っていましたが、僕は自分が何か判りかけていると感じました。

 家が近所だった僕は爾後このエリアを散歩コースにしたのですが、知り合いがお忍びカップルという形でホテルに消えていく姿を幾度か見ることになりました。そしてようやく「そういうことか…」と気づいたのです。謂わばもう一度リアリティがーー今度は高次にーー反転したのです。

 例えば、主婦をナンパしてホテルで過ごしていると、夕方5時の行政放送で「夕焼け小焼け」が流れてきます。主婦が急にそわそわし始め、「夕飯の買物もしなきゃいけないから帰らなきゃ」と言う。そこで僕は羨ましいという気持ちと愛おしいという気持ちに強く駆られるようになりました。

 かつては「数分前あれほど乱れていたのが、<なりすまして>夫や子の元に戻るのか」と隠微さを享受するだけでしたが、そう感じるのも、<なりすまして>戻る場が自分にないがゆえの「無意識の」羨ましさが背景にあるからだと気付き、<なりすまして>帰る存在が愛おしくなったのです。

 以降の僕は、ナンパした女とホテルに入って別れた後、時々尾行するようになりました。自宅迄は追いません。本屋やレコード屋に立ち寄り、スーパーに入ってレジ袋を下げて出て来たり、彼氏や旦那と待ち合わせて抱擁する姿を見、自分に欠けているものを確認するだけで充分でした。

 僕は85年から始まる「ナンパ地獄」から96年に離脱しましたが、その伏線が、92年からのこうした尾行実践でした。尾行が僕にとってのメンタル・メディケーションになったのです。その結果、<なりすまし>によって支えられる秩序こそがありそうもない奇蹟だ、と感じるようになりました。

あり得たかもしれない普遍的寓話に向けた演出

 今述べた僕の経験は[リアリティ(離陸面)⇒リアリティ反転(渾沌経験)⇒リアリティの高次な再反転(着陸面)]という通過儀礼の図式で記述できますが、全く同じこの図式をなぞるように展開しているのが『二重生活』です。僕にとってはお馴染みの、しかし大切なモチーフです。

 この映画が描く「尾行が与える体験」というモチーフは、僕たちの大規模定住社会がどういうものなのか、言語的に構成された社会システム(とパーソンシステム)がどういうものなのか、を、かなり的確に描き出しています。その点で『二重生活』は鋭い作品だと言えると思います。

 惜しいのは、「関係の偶発性の海に浮かぶ、<なりすまし>が辛うじて支える奇蹟の島」の演出的な強調が足りないこと。なぜ門脇麦演じる主人公が尾行を続ける内に崩れるのか。なぜ崩れた後に再生に向かえるのか。僕のような経験をした観客でもないと腑に落ちないだろうと思います。

 本作の演出だと、隣人を尾行することで、「知らなかったもう一つの姿」に釘付けになり、好奇ゆえにジッと注視し過ぎたので、彼氏との関係を含めて自分に大切なものの優先順位ーーリアリティの序列ーーを見失い、崩れてしまった、といった理解の範囲内に、観客を留めてしまうでしょう。

 そうではなく、隣人だけでなく、「誰もが」、<なりすまし>を通じて「書割の中の影絵」として振る舞っていることに、主人公が気付く衝撃。それがもっと描かれていなければなりません。その点、主人公に尾行を勧めた指導教授の、母の看取りを巡る<なりすまし>の演出も不完全だと言えます。

 こうした演出だと、偶々指導教授自身ソフィ・カル『本当の話』に惹かれて<なりすまし>を実行していたから、学生の卒論テーマとして尾行の実践を薦めた、という特殊性の話で纏まります。尾行相手が有能なエリート編集者で如何にもモテそうだという設定も特殊性に回収されます。

 それゆえに、指導教員に看取られた母は「息子に騙されて幸せに往生した人」という受動的存在に留まり、エリート編集者に浮気された妻は「夫に騙されて不幸になった人」という被害者的存在に留まり、主人公の女子学生の彼氏も「彼女の尾行実践の秘密を知らず騙された男」に留まります。

 特殊性に回収されるのであれば、[リアリティ(離陸面)⇒リアリティ反転(渾沌経験)⇒リアリティの高次な再反転(着陸面)]という通過儀礼を通じて「関係の偶発性の海に浮かぶ、<なりすまし>が辛うじて支える奇蹟の島」が浮かび上がる、という体験が指示する普遍的寓意が、失われます。

 僕が脚本を書くなら、これを打開する鍵はリリー・フランキー演じる指導教授にある、と見ます。ラストシーンが示すように、指導教授は尾行が癖(へき)になっています。それは、かつての僕と同じで、人の<なりすまし>に癒されるからでしょう。「だから」、自分も、母を前に<なりすました>。

 寓意の焦点は、尾行ではなく、尾行体験が与える<なりすまし>観察の衝撃にあります。この衝撃にミメーシス(感染)して指導教授は尾行癖に染まり、自らも<なりすます>存在になった、或いは自らの<なりすまし>を他人に尾行されて観察されたいと思うようになった、といった設定です。

 尾行の勧めは、<なりすまし>観察の勧めであり、同時に、<なりすまし>の勧めでもあります。尾行自体が<なりすまし>だからです。現に、女子学生は彼氏に対して<なりすまして>いました。<なりすまし>観察と<なりすまし>実践を同時に勧める教授の世界観に、誰もが興味を持ちます。

 その世界観は連載でも紹介してきたジャック・ラカンの精神分析学に示されるようなものになるでしょう。であれば、教授がラカンの精神分析学を講じる姿や質疑応答の風景が描かれても良かった。というのは冗談ですが、いずれにせよ母が哀れだから<なりすました>という設定は弱い。

 単に<なりすまし>に騙されたと見える、指導教授の母や、エリート編集者の妻や、女子学生の彼氏も、実はとっくに<なりすまし>に気付いていて、自らも<なりすまして>いた、或いは自分自身にディープな<なりすまし>の経験があったーーという設定も普遍的寓意に道を開くでしょう。

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