なぜ小学生がゾンビに? 過激コメディ『ゾンビスクール!』が風刺する現代社会

 アメリカ中の街がゾンビだらけになり、ショッピングモールに逃げ込む男女達。そこには何故か、とりわけ大量のゾンビが徘徊していた。

「なんでモールにゾンビが集まってくるの!?」
「おそらく、生きていたときの本能だろう」

 死者が蘇り歩き出すというブードゥ教の言い伝えを、B級ホラー映画の人気題材に押し上げたゾンビ映画の第一人者、ジョージ・A・ロメロ監督による『ゾンビ』の一幕である。ショッピングモールを目的もなくウロウロと動き回るゾンビこと生きた死体の姿は、生きている人間もゾンビも「やってることはたいして変わらない」という、現代アメリカへの痛烈な風刺となっている。以後、様々な映像作家によって、数多く作られたゾンビ映画の多くは、意識的であれ無意識的であれ、「ゾンビ」という異物を身近な場所に放り込んでみることで、現代社会の姿を表現してきたといえるだろう。

 映画の中で、ゾンビには様々な社会的役割が与えられてきた。変わったところでは、人食いザメと水中で死闘を繰り広げるゾンビ、自己の存在理由に思い悩むゾンビ、ストリップをするゾンビ、刑事として事件を解決するゾンビなどもいる。『ゾンビスクール!』に登場するのは、「小学生ゾンビ」である。本作は、小学校教師達が、ゾンビ化した教え子達、ゾンビキッズ軍団と死闘を繰り広げながら、地獄となった小学校から必死の逃亡をするという、過激なコメディ作品だ。

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 『ゾンビ』における“ショッピングモールをさまよう死人達”が、現代社会における市民の投影であるならば、本作のゾンビキッズ軍団に支配される学校は、社会問題化する学級崩壊、学校崩壊の誇張した姿だといえるだろう。教現場育において子供達が「モンスター化」していくと考える大人達の不安と恐怖心が、ゾンビキッズというかたちに投影されているのだ。本作では、学校教師達が薄給であることや、社会的に軽く扱われていることなどへの不満、直面するストレスについても描かれていく。そのフラストレーションが、ゾンビキッズ軍団への攻撃として、フィクションのなかで炸裂するのである。

 ゾンビになってしまった人間は思考力を失い、生きた人を襲ってその肉をむさぼり食うという、世にもおぞましい存在になってしまう。それを殺害することは生きた人間にとって、社会的にも道義的にも正しいといえる。ゾンビ本人にとっても、ぶち殺されることがかえって幸せであり、むしろ慈悲だということになる。これこそがゾンビ映画が長い間、一部の観客に熱狂的に支持され続けた理由のひとつである。つまり、正義や理屈を盾にして「人間の形をしたもの」を残忍に破壊するという、悪趣味な不道徳を楽しめるのである。本作『ゾンビスクール!』も「ゾンビであれば、何でもできる」という精神で、様々な武器を使って生意気な子供達を大義名分の下、撃退していく様子が描かれていく。

 しかしゾンビとはいえ、体格の小さい子供達に対して大人が暴力を振るう映像を実際に見てみると、やはり後味は悪く、思ったほどにはカタルシスを得られないことに気づかされるだろう。そのことで教師の誇りが回復するわけでもなく、逆に重い十字架を背負っているように見えてしまう。考えてみれば当たり前の話である。後半はとくに演出面で、ゾンビを倒す際に諸手を挙げて喜ぶような描き方をしていないことからも、教師による暴力が教育問題を解決する助けになり得ないことが暗示されているようでもある。では、そこに期待されているはずのカタルシスが爆発しきれない本作は失敗なのかというと、そうともいえないだろう。何故なら、野蛮な暴力の快楽と、モラルを踏み外す後ろめたさとのせめぎ合いこそが、ゾンビ作品にもともと備わっている本質的な特性であり、味わいだからである。

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