宮台真司の月刊映画時評 第2回(前編)

宮台真司の『野火』『日本のいちばん長い日』評:戦争を描いた非戦争映画が伝えるもの

 7月25日公開の『野火』(塚本晋也監督)、8月8日公開の『日本のいちばん長い日』(原田眞人監督)、そして10月1日に公開される『ドローン・オブ・ウォー』(アンドリュー・ニコル監督)と、最近で戦争を扱った良作が多いので、これらをまとめて取り上げたいと思います。合わせて、『野火』に重なる『シン・レッド・ライン』(1999年/テレンス・マリック監督)、『日本のいちばん長い日』と重なる『終戦のエンペラー』(2013年/ピーター・ウェーバー監督)なども見ていきたい。
(※メイン写真は『日本のいちばん長い日』のもの)

『野火』と『シン・レッド・ライン』の共通モチーフ

『野火』場面写真

 戦争に関する映画がいわゆる“戦争映画”になる場合と、そうならない場合があります。戦争映画になるケースは、わかりやすく言うと、多かれ少なかれ「敵/味方」という構図があって、味方に英雄が存在するというヒーローものになります。これは実はプロパガンダ映画に近い構図です。僕が小さいときにハマっていたテレビシリーズ『コンバット』が戦争映画的な作品の典型です。ところが最近、そういった戦争映画的なものとは、異なる作品が増えています。

 例えばテレンス・マリック監督『シン・レッド・ライン』(1999年)。日本軍がほぼ全滅した、オーストラリアに隣接するガダルカナル島が舞台です。戦争映画というより「戦場におかれた人間が何を体験するのか」にフォーカスしています。基本構造は単純で“時間”がモチーフです。戦争で藻掻き苦しむ「ヒトの時間」とは別に、「ワニの時間」があり、「鳥の時間」があり――と他の生き物の時間が描かれ、同じヒトでも「原住民の時間」が全く別に流れて、それらがパラレルワールドのように交わらないことが描かれます。

 そのことで、「同じ時空を共有するはずなのに、なぜ文明的人間の時空というレイヤーでだけ馬鹿げた悲惨が生じているか」という具合に、理不尽さの体験を観客に突きつけます。こうした時間構造から映し出される理不尽さの体験には、敵も味方も関係ありませんから、米兵の体験と同じく日本兵の体験も描かれます。ジム・カヴィーゼル演じる主人公が所属する部隊のリーダーがキリスト教徒で、「神よ、私が皆を裏切らないように、どうか私を見ていて下さい」と神に祈るシーンがあることも見逃せないポイントです。

 塚本晋也監督『野火』(2015年)も似ています。映画は「兵隊に流れる時間」と別に、それと交わらない「現地人に流れる時間」「ジャングルに流れる時間」を描き、別世界に流れる時間に意識を飛ばすことで苦境を耐えるという主人公の実存を示します。こうして観客は「そもそも人間社会(を流れる時間)を生きる必然性があるか」と問われます。社会を生きるからこそ人間の時間に属して戦争に駆り出され、英雄のゲームや悲惨のゲーム──戦争映画的なもの──に巻き込まれる。ならば、社会を生きるのを諦めればいいではないか、と。

 『シン・レッド・ライン』は、社会をベタに生きるのを免れるべく、「宗教性の次元を生きよ」と推奨します。『野火』は、大岡昇平の原作に即して、「狂ってしまえばよい」と推奨します。だからこそ『野火』においては、普通であれば戦場における悪役として描かれるはずの、リリー・フランキーが演じた横暴で狂暴な兵隊・安田などが、悪役ではなく「所詮は主人公の同類」として描かれています。戦場においては英雄も悪役もない、それは非戦場が夢想する虚構だ──。クリント・イーストウッドの映画にも共通するモチーフです。

末端もデタラメ、頂点もデタラメ

 一方、原田眞人監督『日本のいちばん長い日』(2015年)は、『シン・レッド・ライン』と『野火』が、否定的にせよ肯定的にせよ、せいぜいが軍曹くらいまでの「末端」の、戦場におけるデタラメぶりを描くのに対し、本作は参謀本部や御前会議のような「最上層部」の、「末端」に勝るとも劣らないデタラメぶりを描きます。そこが昨年公開されたピーター・ウェーバー『終戦のエンペラー』(2014年)と重なります。『野火』と『日本のいちばん長い日』は、対照的に見えて、共通して戦争(という人間の時間)の茶番を描きます。

 『日本のいちばん長い日』は、1967年に一度映画化され、1980年にテレビドラマ化(TBS系『歴史の涙』)もされました。本作はそれらと少し違います。過去の作品は無条件降伏を阻止しようとする将校らが皇居を占拠した宮城反逆事件をメインに描いたサスペンスですが、本作は天皇の御振る舞いを綿密に描くことで、陛下のあまりのマトモさに比べて、参謀本部や御前会議に陣取る首相以下各大臣のデタラメぶりが浮き彫りになるという仕掛けになっています。

 デタラメな指導陣ですが、阿南惟幾陸相と鈴木貫太郎首相だけが肯定的に描かれます。阿南は陸軍の尊厳護持と陛下への尊崇との間で板挟みになった境界的存在。鈴木貫太郎首相もクソ連中を宥め賺して陛下の御意向に沿うべく苦心した境界的存在。共通します。実は境界的存在を擁護するのが原田監督流。鈴木首相を演じた山崎努の凄い演技を見ると、史実的な「耳の遠さ」も詐病かと疑うほど(笑)。いずれにせよ、余程のタヌキか強烈な矜持を持つ者でなければ、指導者層の余りのクソぶりゆえに自分を保てないことが描かれます。

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