【連載】つやちゃん「音楽を言葉にする」 第8回:「音楽を言葉にする」という仕事の再定義【前編】
文筆家・つやちゃんが、インターネットやAIが発展してますます複雑化する現代の情報空間において、音楽を中心としたカルチャーについて「書くこと」「語ること」の意義やその技法を伝える新連載「音楽を言葉にする」。
第8回は、「音楽を言葉にする」という仕事の再定義について。(編集部)
第1回:皆が語りすぎている時代に、なぜ語るのか
第2回:誰に、どのような問いを投げかけるか
第3回:音楽を語るための論理展開──感覚を構造に変える【前編】
第4回:音楽を語るための論理展開──感覚を構造に変える【後編】
第5回:フォーマットに応じて書く――媒体別の最適化・トーンの設計【前編】
第6回:フォーマットに応じて書く――媒体別の最適化・トーンの設計【後編】
第7回:音楽ジャンルを理解するということ
音楽について語る/書くこと自体が、音楽文化に参加すること
本連載ではこれまで、論考やレビューを中心に、音楽について語ること/書くことを考えてきました。しかし、実際に音楽を言葉にするにあたっては、それ以外にもさまざまな形があります。インタビュー、ライブレポート、ラジオやトークイベント、コラム記事、さらにはメディアでの企画や監修まで、それぞれ求められる役割も、使う技術も異なります。今回は、そうしたさまざまなアウトプットについて一つずつ考えてみたいと思います。
ただ、それぞれの形式について書き方や話し方を整理するだけでは終わりません。なぜなら今、音楽について語る/書くことを取り巻く環境そのものが大きく変わっているからです。現在は、到底聴き切れないほどの作品が日々リリースされ、SNSや動画、音声メディアの普及によって、音楽について語る場所も人も圧倒的に増えました。さらに生成AIによって、文章を書くこと自体のハードルも下がっています。そうした時代に、以前と同じ形式をそのまま繰り返していてよいとは限らない。「何を書くのか」「どう書くのか」と同時に、「そもそも何のために音楽を言葉にするのか」を考え直す必要があります。今回はさまざまな形式を見ながら、それぞれにいま何ができるのか、そしてこれから音楽について書く/話すとはどういうことなのかを思考していきましょう。
ではまず、その前提の部分から考えていきます。音楽ジャーナリスト、評論家、ライター、あるいは趣味で音楽について発信している人。肩書きにかかわらず、そもそも音楽について語る/書く人たちには、いま何が求められているのでしょうか。わたしは、その大きな役割の一つは、音楽と社会のあいだに意味の回路をつくることだと考えています。もちろん、音楽は言葉がなくても楽しめる。何の予備知識もないまま聴いて、ただ「いい」と感じることも、音楽の魅力です。ただ、そこに言葉が加わることで、同じ音楽がそれまでとは違って聴こえることがあります。一つの曲がどんな歴史につながっているのかを知り、制作の背景を知り、自分では気づかなかった音の特徴を知る。あるいは、誰かがその作品のどこに面白さを感じたのかを知る。すると、それまで何とも思っていなかった作品が急に面白くなったり、知らなかったアーティストを聴いてみたくなったりする。つまり、音楽を言葉にすることで、聴こえ方を増やすことができるのです。言葉に触れたあと、同じ曲が少し違って聴こえ、それまで関心のなかった音楽へ好奇心が広がっていく――そうやって聴き手の知覚を少し動かしてしまうような行為が、音楽について語り/書くことの重要な役割なのだと思います。
そして、そうした言葉のやり取りは、個々の聴き手の体験を広げるだけではありません。音楽について語る/書くこと自体が、音楽文化に参加することにもつながっています。これはプロのライターや評論家に限った話ではありません。好きな曲を友人に勧める、SNSに感想を書く、レコードやCDを買う、ライブに足を運ぶ。そうした小さな行為の積み重ねが、作品と人をつなぎ、結果として音楽文化を支えています。どの世界も同じですが、たとえば、食について考えてみると分かりやすいかもしれません。美食家やフーディと呼ばれる人たちは、単においしいものが好きだから食べ歩いているだけではありません。おいしいものを探して食べ歩く過程で、いろいろな店を訪れ、料理人の仕事に触れ、食文化について知るにつれ、少しずつある種の作法を身につけていきます。良いと思った店にはきちんとお金を払う。小さな店を応援する。予約を無断で飛ばさない。料理人や店がどんな背景を持っているのかを知ろうとする。そして、面白いと思った店について誰かに話し、次の客へとつないでいく――。誰かに「食文化を守りなさい」と命じられたわけではない。それでも、好きだからこそ繰り返している行為の積み重ねが、結果として食文化を支えることにつながっています。
音楽も同じです。音楽について語るすべての人が、文化に貢献しなければならないと考える必要はありません。「この曲最高だった」と一言書くだけでもいい。ただ、その言葉をきっかけに誰かが曲を聴き、そこから新しい出会いが生まれることがあります。文化は、評論家やジャーナリストだけがつくるものではなく、無数の人が聴き、語り、紹介し、記録することで形づくられていくものです。そのうえで、これを仕事として担う人には、もう少し強い自覚が必要でしょう。取材の機会を与えられ、メディアという場所を使い、報酬を受け取りながら言葉を社会へ届ける以上、自分の文章が作品やアーティストの見え方に影響することを考えなければなりません。プロとアマチュアの違いは、単に文章や知識の技術差だけではなく、文化のなかでどれだけ大きな場所を与えられ、その場所をどう使うかにもあるのだと思います。しかも、仕事として発した言葉の影響は、その時代だけで終わるとは限らない。レビューやインタビュー、ライブレポートは、その時点では一本の記事にすぎなくても、残り続ければ、その時代を知るための記録になります。未来の誰かが、この時代に人々はこの音楽をどう聴いていたのか、このアーティストは何を考えていたのか、このライブでは何が起きていたのかを知る手がかりになる。わたしたちが今、過去の音楽文化を知ることができるのも、誰かがその瞬間を言葉に残してくれたからです。だからといって、100年後のために重要な史料を残そう、と肩に力を入れる必要はありません。いま目の前で起きている変化を面白がり、それを言葉にする。その文章が、結果として何十年、何百年後かに、その時代を知るための記録になるかもしれない。それで十分です。
そう考えると、音楽について語る/書くことには、二つの時間が流れています。一つは、いま誰かの好奇心を動かし、音楽の聴こえ方を広げる時間。もう一つは、その言葉を記録として残し、未来の誰かへ渡す時間です。目の前の音楽をもっと面白くすることと、その時代の音楽文化を未来へ残すこと。その両方が、音楽を言葉にするという行為のなかに含まれていると考えてよいでしょう。
それぞれの形式について考える
さて、ここまで少し大きな話をしてきました。なぜ各形式について考える前に、そもそも音楽を言葉にすることの役割から考えたのでしょうか。それは、インタビューやライブレポートといった形式を、単なる文章や語りの「型」として捉えたくないからです。先ほど述べたように、音楽を言葉にすることには、いま誰かの好奇心を動かし、音楽の聴こえ方を広げる役割があります。同時に、その時代の音楽や人々の考えを記録し、未来へ残す役割もあります。だとすれば、重要なのは「インタビューはこうするもの」「ライブレポートはこう書くもの」と既存の形式をなぞることではありません。その目的のために、いまそれぞれの形式で何ができるのかを考えることです。
形式によって、できることは違います。インタビューなら、本人にしか語れないことを引き出し、その時点での考えを記録できる。ライブレポートなら、その場で起きていたことや空気を、書き手自身の体験を通して残すことができる。論考や企画であれば、作品と作品、音楽と社会のあいだに新しいつながりを見つけることができるでしょう。つまり、先に「何のために音楽を言葉にするのか」という目的があり、そのための手段として、それぞれの形式がある。そう考えれば、音楽を取り巻く環境が変われば、形式の使い方も変わって当然です。大切なのは既存の型を覚えることではなく、いまこの形式に何ができるのかを、その都度問い直すことなのだと思います。ここからは、インタビュー、ライブレポート、ラジオやトークイベント、企画や監修といった具体的なアウトプットについて、一つずつ考えてみましょう。それぞれの形式を、いまの音楽をもっと面白くし、未来へ何かを手渡すために、どう使うことができるのでしょうか。
論考/レビュー/ライナーノーツ
まずは、これまでの連載でも何度か触れてきた論考やレビューといった形式について、そこにライナーノーツも加えながら、もう一度簡単に整理しておきます。この三つは、いずれも作品について書くという点では近い形式ですが、求められる役割は少しずつ異なります。まず、ここでは、論考は長尺の評論、レビューは中~短尺の評論と置きます。その二つでは、前回までの繰り返しになりますが、圧縮したあとの濃度が違います。論考では、一つの作品から出発して過去作や別のアーティスト、ジャンルの歴史、社会状況などへと視野を広げながら、問いを展開していくことができる。一方レビューでは、それだけの背景や考察を限られた文字数のなかに凝縮し、「この作品をどう捉えるか」という核をできるだけ鮮明に提示する必要があります。
さて、ライナーノーツは、そこから少し役割が変わります。作品に付随する文章である以上、批評や評価そのものよりも、その作品へ入っていくための文脈をつくることが重要になるからです。アーティストの来歴、キャリアのなかでの位置づけ、制作時期、参加ミュージシャンやプロデューサー、過去作との関係など、基本的な事実情報は、レビューや論考よりも厚めに入れた方がよい。その作品がデビュー作なのか、転換点にあたる作品なのか、あるいは原点回帰なのか。そうした時間軸を示すことで、初めて聴く人にも作品へ入るための足場をつくることができます。ただし、ライナーノーツが単なる資料集やプレスリリースになってしまっては面白くありません。書き手自身がどこに魅力を感じ、どんな聴き方を提示できるのかという視点も必要です。詳しいファンには新しい見方を、初めて触れる人には理解の入口をつくる。つまり、論考が作品から問いを広げ、レビューが作品についての見方を凝縮するものだとすれば、ライナーノーツは作品へ入っていくための文脈をつくる文章だと言えるでしょう。
ライブレポート
次に、ライブレポートについて考えてみましょう。ライブレポートは、記事の目的や読者層によって、かなり内容を変えるべき形式だと思います。長らく音楽メディアには、ライブレポートのある種の「型」がありました。セットリストを追いながら、どの曲でどんな演奏や演出があり、ステージ上でどのようなパフォーマンスが行われ、観客がどう反応したのかを、事実ベースで時系列に記していく。いわば「その夜に何が起きたのか」を、できるだけ事実として伝える方法です。
この書き方には、それなりの意義があります。その場にいなかった人に出来事を伝えられ、後から振り返ったときにも、どんなライブだったのかを確認することができる。とりわけ記録という観点では重要で、前回触れた先述した「未来へ残す」という役割を、ライブレポートもまた担っています。ただ、その一方で、そういったレポートのあり方を時代に応じて変えていく必要もあるのではないでしょうか。現在では、セットリストは終演直後にSNSで共有され、衣装や演出も写真や動画ですぐに見ることができます。MCの内容までファンによって詳しく書かれることも珍しくありません。つまり、「何が起きたのか」を知らせるだけなら、ライブレポートでなくてもできる時代になっているのです。
そう考えると、いまライブレポートに求められているのは、「何が起きたのか」を記録することだけではなく、「そこで何が起きていたのか」を考えることなのではないでしょうか。たとえば、「アンコールである曲が演奏され、会場から大きな歓声が上がった」と書けば、それは出来事の記録にすぎない。しかし、なぜその曲がこの日の最後に置かれたことが重要だったのか。過去のライブと比べて、アーティストの身体の使い方や観客との距離はどう変わっていたのか。その演出は、現在のその人のキャリアや音楽性について何を示していたのか――そこまで考え始めると、ライブレポートは単なる報告ではなく、批評に近づいていきます。
ここで面白いのは、ライブレポートでは、書き手自身も出来事の外側にはいないということです。アルバムレビューであれば、何度も聴き直すことができます。一時停止もできるし、資料を調べたあとでもう一度確認することもできる。しかしライブは、一度始まったら止められません。会場で大音量を浴び、人の熱気に包まれ、周囲の歓声を聞きながら、書き手自身の身体もその場に参加している。だから、完全に客観的な観察者として振る舞うことには、そもそも無理があります。むしろ、「自分はその場で何を見て、何を聴き、何を感じたのか」を、ライブを考えるための重要な材料として使うべきです。大切なのは、その感覚を起点に、なぜ自分はここでこんなに興奮したのか、なぜこの瞬間に会場全体の空気が変わったのか、このライブはこのアーティストについて何を明らかにしたのか、と考えていくことではないでしょうか。個人的な体験をそのまま書くのではなく、体験を観察し、そこから問いを立て、解釈へとつなげていく。その意味で、ライブレポートには、ルポルタージュやエッセイに近い書き方もあり得るでしょう。
ただしそれは、どちらが正しいという話ではありません。重要なのは、その記事が誰に向けられ、何のために書かれるのかということ。たとえば公式サイトやファンクラブの記事であれば、参加できなかったファンに、その日の出来事をできるだけ詳しく届けることが求められる。その場合は、セットリストやMC、演出などの記録性が高い方がよい場合もあります。一方で、一般のカルチャーメディアであれば、そのアーティストをよく知らない読者にも、なぜこのライブを見る意味があったのかを伝える必要があるかもしれません。批評媒体であれば、セットリストを逐一追うよりも、ライブを通して見えたアーティストの現在地や、その場に表れていた時代性について深く考える方が面白いかもしれません。つまり、ライブレポートにも「こう書けばよい」という一つの型があるわけではない。記録を重視するのか、分析を重視するのか。事実を丁寧に残すのか、一人の観客としての身体感覚から考えるのか。その配分は、記事の目的と読者によって変わります。大切なのは、従来の型をそのままなぞることではなく、このライブについて、いまこの場所で、誰に何を伝えるべきなのかを考えることです。
わたしの場合は、依頼を受けたライブレポートについては、事前にメディアやアーティスト側とすりあわせしておくことが多いです。「事実ベースの情報はSNSで多く出ると思うので、ルポルタージュ形式で書いてもいいですか」と提案することも頻繁にあります。そうなると、ライブ会場での視点も変わってくるでしょう。ルポ形式であれば、書き手自身が現場を歩き、見聞きしたことを手がかりに、その場で起きていたことを立体的に描いていくため、たとえば「会場へ向かう駅からすでに普段とは違う服装の人が増えていた」「開演前にはこういう空気が漂っていた」「ある曲が始まった瞬間、それまでスマホを掲げていた観客が一斉に踊り始めた」といった、現場でしか得られないディテールを拾っていく。ライブそのものだけでなく、会場、観客、街、開演前後までが取材対象になります。仮に、会場に入る前から黒を基調にした服や厚底のブーツ、濃いアイメイクなど、ゴスっぽい装いの観客が目立っていたとしたら、単に「そういうファッションの人が多かった」と記録するだけでなく、なぜこのアーティストの周囲にそうした美学が集まっているのか、その装いが音楽やステージ演出とどう響き合っているのかまで考えていくことになる。すると、ライブレポートは、その場の描写からアーティストが形成している文化圏そのものを捉える文章へと広がっていきます。
こうして考えると、ライブレポートを書くとは、その夜に起きたことを漏れなく並べることではなく、現場で何を見つけ、そこから何を読み取るかを選んでいくことなのだと思います。ライブは一度きりですが、書き手の視点を通すことで、その場にあった空気や意味を未来へ残すことができる。何を記録し、何を解釈するのかというその選択にこそ、ライブレポートを書く人の役割が表れるのではないでしょうか。
プレスリリース
次に、プレスリリースについて考えてみます。プレスリリースというと、アーティストやレーベルが新作の情報をメディアへ知らせるための、いわゆる宣伝文というイメージが強いかもしれません。しかし、実際に書いてみると、これは意外なほど複雑な文章です。というのも、プレスリリースには、ほかの音楽についての文章とは少し違う、二重の受け手が存在するからです。
まず読者になるのは、編集者やライターをはじめとするメディア関係者です。毎日大量の情報が届くなかで、「これは面白そう」「ニュースとして取り上げたい」と思ってもらわなければならない。そして、そこでニュースとして掲載されれば、今度はその先にいるリスナーへ情報が届きます。実際、プレスリリースの文章はニュース記事のなかで引用されたり、要約されたりすることも少なくありません。つまりプレスリリースは、メディアに対して「この作品を取り上げる意味」を伝える文章であると同時に、その先にいるリスナーに「この作品を聴く理由」を伝える文章でもあるのです。そのため、まず重要になるのは、作品のどこが面白いのかを見つけることでしょう。新曲が完成した、アルバムが発売される、ツアーが開催される。もちろんそれ自体がニュースではありますが、世の中には毎日膨大な数のニュースが飛び交っている中で、なぜこの作品についていま知るべきなのか。そこまで考えなければ、情報としてはなかなか価値になり得ません。
そこで必要になるのが、実は批評のスキルです。出来上がったばかりの楽曲を聴き、その音楽が現行シーンのなかでどんな意味を持つのかを考える。あるジャンルやコミュニティのなかで、どんな新しい動きを生みそうなのか。あるいは、そのアーティスト自身のディスコグラフィを振り返ったとき、どんな位置にある作品なのか。これまでとは違う音楽性へ踏み出した作品なのか、むしろ原点へ戻ったのか。レビューや論考を書くときと同じように、作品をよく聴き、背景を調べ、そこにある変化や特徴を見つけていく必要があります。
ここで押さえておきたいのは、アーティストサイドと一緒につくる文章だからといって批評性が必要ないわけではない、ということです。むしろ逆で、宣伝のための文章だからこそ、批評性が必要なのだと思います。作品を分析せずに褒めようとすると、「待望の新曲」「唯一無二のサウンド」「さらなる進化を遂げた」といった、どんな作品にも使える言葉ばかりになってしまう。それでは、その作品固有の魅力はなかなか伝わりません。何がこれまでと違うのか。なぜいまこの音を鳴らすことが面白いのか。そうした問いを突き詰めることで初めて、その作品にしか使えない言葉が見つかります。宣伝の解像度を上げようとすると、結果として批評に近づいていくのです。
ただし、そこで必要になる批評性とは、もちろんレビューや論考とまったく同じではありません。プレスリリースは基本的に、アーティストやレーベルとともに作品を世の中へ送り出すための文章です。ゆえに、作品を批評的に分析したうえで、そのなかから「この作品の何を伝えるべきか」を選び取り、魅力として提示していく必要があります。批評によって価値を発見し、それを作品が届くための言葉へ変換していく、と考えると分かりやすいかもしれません。そこで最終的に必要になるのが、広告的なコピーライティングのスキルです。メディアの編集者が一つのプレスリリースをチェックするのに長い時間をかけてくれるとは限りません。タイトルや冒頭の数行を見ただけで、何がニュースなのか、どこが面白いのかが鮮明に伝わる必要があります。そのためには、作品そのものの魅力に加えて、過去の実績、参加アーティストやプロデューサー、国内外での反響など、さまざまな情報のなかから、何を前に出せば価値が最も伝わるのかも判断しなければならない。そして、見つけた価値をできるだけキャッチーに、短く、分かりやすい言葉へ圧縮していく。つまりプレスリリースでは、批評によって価値を発見し、コピーライティングによって価値を圧縮するという二つの技術が必要になります。
さらに面白いのは、こうした作業を、アーティストサイドとやり取りしながら行うことです。出来上がったばかりの作品を聴き、「この作品の面白さはここにあるのではないか」「これまでの作品と比べると、ここが大きく変わっているのではないか」と言葉にして返す。するとアーティストから、「そこはまさに意識していた」「むしろ自分としてはこっちの変化の方が大きい」といった反応が返ってくることもあります。その往復によって、作品のどこを社会に向けて提示するのかが少しずつ定まっていきます。そう考えると、プレスリリースを書くということは、アーティストと一緒に作品の社会的な意味を定義していく共同制作であるとも言えるでしょう。
インタビュー
次に考えるのは、音楽について語り/書くものの中でも最も難しい形式の一つと言われる、インタビューについてです。編集者や音楽ライター同士で話していると、よく話題になるのが、このインタビューや取材という形式の答えのなさです。つまり、評価軸が一つではない。これまで語られていなかった事実を引き出したインタビューを良いと感じる人もいれば、アーティストの人柄が伝わるものを好む人もいる。聞き手がかなり踏み込んで仮説をぶつけ、対話そのものが刺激的になっているものを評価する人もいれば、逆に聞き手の存在感はなるべく消して、アーティスト自身の言葉を最大限引き出すべきだと考える人もいます。つまり、一口に良いインタビューと言っても、その基準はかなりばらばらなのが実情です。
では、そんなインタビューについて、わたしたちはどこから考えていけばよいか。評価軸がいくつもあるからこそ、まずは方法論ではなく、そもそもの狙いや目的に立ち返ってみる必要があります。果たして、インタビューは何のために行うものなのでしょうか。
まずは、本人にしか分からないことを聞くため、というのが最も基本的な答えでしょう。作品をどのように作ったのか、なぜこの音を選んだのか、ある出来事を本人はどう受け止めていたのか。外側から作品を聴いているだけでは分からないことを、本人の言葉によって知ることができる。これはインタビューの大きな役割です。ただ、インタビューの面白さは、すでに本人のなかにある答えを聞き出すことだけではありません。質問されて初めて考えることもあれば、話しているうちに本人自身が「ああ、自分はそう考えていたのか」と気づくこともある。聞き手がある仮説を投げかけ、それに対して話し手が考え言葉を返し、さらにそこから次の質問が生まれる。そのやり取りのなかで、それまでどこにも存在していなかった思考が生まれることがあります。インタビューとは、情報を取り出す作業であると同時に、対話によって新しい言葉をつくる場でもあるのです。
そして、もう一つ大切なのが、記録することです。あるアーティストが、ある時点で何を考えていたのかという言葉を残すことには、それだけで意味があります。人の考えは変わるので、数年後には本人自身がまったく違うことを言っているかもしれない。だからこそ、その作品を作ったとき、その出来事が起きたとき、その人が何を考えていたのかを言葉として残しておく。あるいは、その発言自体が時代を表す証言になることもあるでしょう。以前に述べた「未来へ渡す」という役割を、インタビューはとても直接的な形で担っています。
そう考えると、「インタビューがうまくいった」という言葉にも、実はいくつもの意味があることが分かります。取材の場として会話がうまく成立したのか。必要な言葉を引き出せたのか。記事として面白くなったのか。あるいは、後世に残る記録として価値のあるものになったのか。これらは必ずしも一致しません。取材中はとても盛り上がったのに、文字に起こしてみると意外と中身がないこともありますし、逆に取材中は手応えが薄かったのに、読み返してみると重要な発言がいくつも残っていることもある。自分では会心の質問だと思ったものが記事では使えず、何気ない相槌から始まった話が記事の核になることもあります。インタビューには、こうした複数の軸が重なっているのです。さらに特殊なのは、インタビューが共同制作でありながら、完成した記事の責任の大部分は聞き手側にあることです。相手がよく話してくれれば面白くなりやすいし、寡黙なら難しくなる。つまり、成果は自分の能力だけで決まるわけではない。それでも記事になれば、「このインタビューは面白い/面白くない」と評価される。プロのインタビュアーでも、場数を踏むたびにその難しさや恐ろしさといった、いわば不確実性に振り回されています。
ここまで考えると、インタビューとは、相手から必要な情報を効率よく回収するための形式ではないことが分かるでしょう。本人にしか語れないことを聞き、ときには対話のなかから本人もまだ気づいていなかった言葉を生み、その瞬間を記録として残していく。しかも、それを聞き手一人ではなく、目の前の相手とのやり取りによってつくっていく。つまりインタビューは、最初から最後まで自分の思い通りにはできない、コラボレーションによる成果物です。
だからこそインタビューという形式が難しく、同時に面白いのは、どれだけ準備をしても、実際にやってみるまでどうなるか分からないところです。実際、わたしもこれまで、取材における不確実性を様々な現場で体験してきました。海外アーティストの取材で40分間もらえると聞いていたのに、現場に行ったら「今日は10分でお願いします」と言われた。対面取材の予定だったのに、直前に突然メールインタビューに切り替わった。また、事務所やレーベル主導で決まったインタビューは、いざ始まってみるとこちらが何を聞いてもアーティスト本人はほとんど答えてくれないケースもあります。逆に、何気なく聞いたことから予想もしなかった話題で盛り上がり、用意していた質問をほとんど使わないまま、当初とはまったく違う方向へ話が進んでいくこともあります。インタビューとは、とにかく生ものなのです。
しかし、だからといって準備をしなくてよいわけではありません。作品を聴き込み、過去のインタビューを読み、経歴を調べる。今回の取材で何を聞きたいのかを考え、質問を用意する。可能であれば、話がどう展開していくかまで想像しておく。準備できることはいくらでもありますし、できるだけしておいた方がいいでしょう。ただし、ここで一つ覚えておきたいことがあります。準備とは、準備した通りにインタビューを進めるためにするものではない、ということです。むしろ、準備した通り進まなくても対応できるように用意するのが「準備」なのです。これは、どういうことでしょうか。
つまり、事前に考えた質問は、台本というよりも「地図」のようなものだと思った方がよい、ということです。地図が頭に入っているからこそ、予定していた道から外れても現在地を見失わずに済む。そして、相手が思いがけない方向へ歩き始めたとき、「そちらの方が面白そうだ」と判断して、一緒に寄り道することもできる。逆に、十分な準備がなければ、相手が重要なことを話していても、その言葉がどれほど重要なのかに気づけないかもしれません。その意味では、インタビューで大切なのは「質問する力」だけではなく、「聴く力」です。インタビューを始めたばかりの頃ほど、つい「良い質問をしなければ」と考えてしまう。もちろん質問は大切ですが、実際には次に聞くべき質問は、目の前の相手がいま話したことのなかにある場合が少なくありません。今さらっと言ったけれど、それはどういう意味なのだろうか? この話題になった途端、急に具体的な話が増えたのではないか? 先ほど話していたことと少し矛盾しているように聞こえないか? そんな小さな引っかかりを逃さず、「それって、どういうことですか?」ともう一歩突っ込んでみる。そこから、事前にどれだけ考えても思いつかなかった深い話が始まることがあります。
だから、取材中は準備した質問を消化することよりも、実際の会話を楽しむことを大切にした方がよいです。準備は十分にする。しかし、取材が始まったら、その準備に縛られない。目の前の相手の言葉をよく聴き、面白いと思った方向へ一緒に進んでいく。その予測できなさを受け入れることが、インタビューという形式の難しさであり、同時に醍醐味なのだと思います。
ここで、インタビューがどのような経緯で生まれるのかについても考えておきましょう。音楽メディアで最も多いのは、新作のリリースに合わせてレーベルや事務所から依頼される取材です。その場合は当然、新作が起点になります。どのように作ったのか、前作から何が変わったのか、いま本人はどんなことを考えているのか。作品をより深く知り、読者へ届けるための問いが中心になるでしょう。一方で、インタビューは必ずしも新作のリリースに合わせて行うものでもありません。書き手自身がいま気になっていることや、音楽シーンで起きている変化、社会の状況などから、「いま、この人にこの話を聞きたい」と思うこともあるでしょう。その場合は、自分から企画を立てたり、編集者やメディアと相談しながら取材を実現させたりすることになります。与えられた取材機会にきちんと応えることはもちろん大切ですが、自分が何を知りたいのか、いま何を聞くべきだと思うのかを起点に、取材そのものをつくることもまた書き手の仕事です。誰に、何を、なぜ今このタイミングで聞くのか。それについて考える時点から、すでにインタビューは始まっていると言ってもよいでしょう。
そして、こうした取材を自分から生み出そうとすると、自然と必要になってくるのが批評のスキルです。作品やシーンを自分なりに見て、そこに問いや違和感を見つけなければ、「いま、この人にこれを聞きたい」という発想は生まれません。これは実際の取材でも同じです。相手の言葉をよく聞き、その場で次の問いを見つけていくためには、聞き手の側にも、作品について考え、自分なりの読みを持つ力が必要です。そういう意味で、インタビューにおいても批評のスキルは欠かせません。ただ「この曲はどうやって作ったのですか」と聞くだけではなく、まず自分なりに作品を聴き、考え、仮説を持つ。「わたしはこの作品をこう聴いたのですが、実際に作ったあなたはどう考えていますか」と投げかける。すると、相手はその見方に同意することもあれば、「いや、そうではなくて」と否定することもある。その往復によって、単なる情報の受け渡しではない対話が生まれ、インタビューが活性化していきます。ここでも重要なのは、自分の解釈を正解として相手に押しつけることではありません。自分なりの読みを一度差し出し、それを相手にぶつけることで、作品について一緒に考える場をつくることです。
これまでわたし自身も、アーティストから、「以前のインタビューで話したことをきっかけに今作の作り方が変わりました」といった類いのことを何度も言われてきました。アーティストは制作中は作ることに夢中で、自分の作品について時間をかけて振り返ったり、なぜこうしたのかを言葉にしたりする機会は多くはないと言います。インタビューで他者から問いを投げかけられることで、初めて自分の作品を少し離れた場所から眺め、内省を深めることがある。そのときインタビューは、完成した作品について後から説明を聞く場にとどまりません。そこで生まれた言葉や気づきが、次の作品へと跳ね返っていくこともある。そう考えると、インタビュアーは作品を外側から記録するだけではなく、対話を通じて、間接的にその後の創作へ参加することさえあるのだと思います。
ここまで、インタビューを「何を聞くか」「どう対話するか」という観点から考えてきました。もう一つ重要なのが、その対話を最終的にどのメディアで届けるのか、それによってどのように取材の仕方を変えていくのかという問題です。同じ相手に同じテーマで話を聞くとしても、動画コンテンツになるのか、音声コンテンツになるのか、テキスト記事になるのかで、聞き手が意識すべきことはかなり違います。少しテクニカルな話になりますが、それぞれの違いを整理しておきましょう。
たとえば動画の場合、取材の場で生まれたものが、そのまま完成形にかなり近い状態で残ります。表情や声の調子、間の取り方まで映像に含まれるため、後から文章のように大きく組み替えることは難しい。さらに、短く切り抜いて使うことも多いので、一つの質問に対してある程度まとまった答えを引き出す必要があります。相手が話している途中でこちらの声をかぶせすぎないことも大切ですし、話がどこまでも脱線してしまうと、編集時に使いづらくなる。つまり動画では、現場でどれだけ完成度の高い会話をつくれるかが、とても重要になります。
一方、音声コンテンツでは少し事情が変わります。顔が見えないぶん、声のトーンや笑い、間、相槌といった要素が、想像以上に大きな意味を持ちます。聞き手自身もある程度大きめに反応しながら、相手のテンションを引き出す必要があるでしょう。逆に、動画よりも脱線を許容しやすく、その寄り道のなかから人柄や素の部分が見えてくることもあります。何を話したかだけではなく、どんな空気で話していたかまで含めてコンテンツになるのが、音声の特徴です。
また、厳密に言えば、同じ音声コンテンツでもラジオとポッドキャストでは会話のつくり方が少し違います。もちろん番組の性格にもよりますが、ラジオはより広い聴取者を想定し、限られた放送時間のなかで話を運んでいく必要があるため、ある程度テンポよく話題を展開し、初めて聴く人にも伝わるように情報を整理することが求められます。それに対してポッドキャストは、番組を自分で選んで聴きに来る人が多く、比較的長い時間を使えることもあって、もう少しクローズドで親密な空気をつくりやすい。短く切り抜かれて不特定多数の人の目に触れることを意識せずに済むぶん、話し手も素に近いトーンで、込み入ったことや個人的な感覚を話しやすくなります。だからポッドキャストでは、話をきれいにまとめることよりも、寄り道をしながら関係性や空気を育て、そのなかから普段とは違う言葉を引き出すことが重要になる場合があります。わたし自身も、ラジオで話すときは、意識としてはテレビで話すときに比較的近く、限られた時間のなかで初めて聞く人にも伝わるように話を組み立てます。一方、ポッドキャストではもう少し構えがほどけて、話しながら考えたり、脇道にそれたりすることも含めて会話をつくっていく。実際に話す側に立ってみても、この二つは同じ音声メディアでありながら、少し違うモードで言葉を使うものだと感じます。
そして、テキスト記事は、動画や音声コンテンツとは全く別物です。なぜなら、そこに「編集」が介入する程度が非常に大きいからです。というのも、実際の会話をそのまま文字に起こしただけでは、ほとんどの場合、読み物として成立しません。人は普段、文章のようには話さない。「えー」「まあ」「なんというか」といった言葉を挟み、途中で言い直したり、主語を忘れたり、同じことを何度も繰り返したりもする。話が前後することもあるし、突然話題が飛ぶこともあります。対面であれば、表情や身振り、声色、間が補ってくれるので意味は伝わりますが、それらをすべて失って文字だけにすると、非常に分かりにくくなってしまう。実際にはとても聡明で魅力的に話していた人が、文字起こしでは意地悪い話し方に見えてしまうことすらあります。
だからこそテキストインタビューとは、かなり手を入れるものなのです。重複を削ったり、語順を整えたり、語尾を調整したり、話題の順番を入れ替えたりする。離れた場所で話していた内容を、一つのまとまりとして再構成することもあります。そうでないと、とても読めたものではありません。もちろん、本人が言っていないことを足したり、発言の意味を変えたりしてはいけません。しかし、実際の会話をそのまま残すことと、その会話に忠実であることは、必ずしも同じではないのです。むしろ、その場の空気感や話し手のニュアンスを忠実に伝えようとすればするほど、文章には手を入れる必要があります。たとえば、実際には楽しそうに、早口で、笑いながら話していた。その感じを文字だけで伝えるには、文章のテンポを少し速くしたり、その人らしい語彙を残したり、語尾を調整したりする必要がある。反対に、慎重に言葉を選びながら話していたのであれば、その間合いが伝わるような文章に整えた方がよいでしょう。
つまり、テキストインタビューは、会話の複製ではありません。会話を文章という別の形式へ移し替える、ある種の「翻訳」と考えた方が近いのだと思います。動画では、表情も身体も声も言葉も残る。音声では、表情や身体は失われるけれど、声や間や笑いは残る。テキストになると、最終的には言葉しか残りません。だからこそ、失われた情報を、構成やリズム、語彙、語尾といった文章上の工夫によって補う必要があるのです。
そう考えると、テキストインタビューにおける編集とは、会話を「きれいな文章」に直す作業ではありません。その場で起きていたことを、文字だけの世界でもう一度立ち上げるための作業です。実際の会話に忠実であるために、あえてそのまま書かない。ここには、テキストインタビューならではの逆説があります。取材の場では、話し手と聞き手が一緒になって会話をつくる。そして記事化の段階では、聞き手がその会話を素材に、もう一度文章として組み立て直す。そういう意味では、文章のインタビューには、取材と記事化という二度の制作があると言ってもよいのかもしれません。
ただし補足しておくと、音楽メディアのなかには、むしろ話し言葉そのものをできるだけ残すことを重視してきた媒体もある、という背景は知っておいた方がよいでしょう。たとえば『ROCKIN’ON JAPAN』は、基本的に掲載前の原稿をアーティスト側に確認しない方針をとってきたため、話し手の言葉に対して編集部やライター側が手を入れることには慎重です。その結果、話し言葉の癖や反復も含め、実際の発言をそのまま残したインタビューが成立してきました。ここでは、その場のニュアンスを文章として再構成することよりも、その人が実際に何と言ったのかを記録として残すことに、より大きな価値が置かれてきたと言えるでしょう。同じテキストインタビューでも、何をもって「発言に忠実」と考えるかによって、編集の思想は変わるのです。わたしはどちらかというと、取材の場の空気や体験としてのニュアンスを忠実に再現したいと思うからこそ、通常は文字起こしから記事にしていく過程で大きく手を入れますが、rockin’on関連の媒体ではあまり手を加えません。どちらが正解であるという話でもないので、そのあたりもメディアの思想に応じて書き分けていく必要があります。
ただし、繰り返しになりますが、編集によって話し手を必要以上に誇張して見せることには注意が必要です。本人が使わないような語彙に置き換えたり、曖昧に話していたことをあまりにも論理的な主張へ整えたりすれば、それはもはや翻訳ではなく、聞き手による創作に近づいてしまいます。どこまで手を入れても「その人の言葉」であり続けるのか。その境界を見極めることも、テキストインタビューを執筆する人に求められる技術なのだと思います。
(続く)