【連載】つやちゃん「音楽を言葉にする」 第7回:音楽ジャンルを理解するということ
文筆家・つやちゃんが、インターネットやAIが発展してますます複雑化する現代の情報空間において、音楽を中心としたカルチャーについて「書くこと」「語ること」の意義やその技法を伝える新連載「音楽を言葉にする」。
第7回は、音楽ジャンルを理解するということについて。(編集部)
第1回:皆が語りすぎている時代に、なぜ語るのか
第2回:誰に、どのような問いを投げかけるか
第3回:音楽を語るための論理展開──感覚を構造に変える【前編】
第4回:音楽を語るための論理展開──感覚を構造に変える【後編】
第5回:フォーマットに応じて書く――媒体別の最適化・トーンの設計【前編】
第6回:フォーマットに応じて書く――媒体別の最適化・トーンの設計【後編】
ジャンルとは文化そのもの
音楽について語り/書く人たちと接していると、最も多く出会う問いがあります。それは「音楽を言葉にする営みを、どのように生業とするか」というものです。難しく、世俗的なそのテーマについてはひとまず次回以降で詳しく論じるとして、もうひとつ頻繁に耳にするのが「音楽知識」にまつわる声です。中でも多いのが、「ジャンルをどのように学べばいいのでしょうか」という問いです。
そういった声を聞いていると、ある種の焦りすら感じられることがあります。ストリーミングサービスを開けばジャンル名が冠されていると思しきプレイリストが次々と現れ、書店には特定ジャンルに特化したガイドブックが並ぶ。SNSでは「これはシューゲイズなのか否か」「この曲をヒップホップと呼ぶべきではない」といった議論が頻繁に交わされ、見たことのないマイクロジャンルがいつの間にか流行っている。音楽について言葉を紡ごうとしているあなたにとって、ジャンルという存在が大きな壁に見えてしまうのも無理はありません。「まずは膨大なジャンル知識を身につけなければ、音楽について語ることはできないのではないか」と感じる人も多いのではないでしょうか。まずはその点で述べるとしたら、当たり前ですが、知識は多ければ多いほど良いに越したことはありません。「今はインターネットもAIもあるし、昔ほどジャンルや知識の量は問われないのではないか」という意見もありますが、そもそも知らなければ問いを立てたりリサーチしたりすることもできないので、やはり知識はあった方が良いと思います。
とはいえ、ただジャンル名だけを並べるような語りや文章であれば、それこそAIで十分です。「ネオソウル由来の成熟したR&B」「ダブステップとアフロビーツが融合した革新的サウンド」といった記述は、今や至るところで目にする常套句になっています。だからこそ重要なのは、ジャンル名を知っていることそのものではありません。ジャンルを単なるラベルとして消費するのではなく、それを手がかりにどのような視点を見出し、どのような独自の論を立ち上げるかが肝です。そのためにはまず、ジャンルとは何なのかを考える必要があります。私たちはついジャンルを音楽の分類表のように捉えがちですが、本当にそれだけなのでしょうか。なぜ音楽にはこれほど多くのジャンルが存在するのか。なぜ人々は新しいジャンルを生み出し続けるのか。音楽について言葉にするためには、まずジャンルそのものを少し俯瞰して眺めてみる必要があります。ここでは少しだけ寄り道をして、まず音楽ジャンルをめぐる考え方がどのように変化してきたのか、いくつかの論を押さえる形で見てみましょう。
ポピュラー音楽におけるジャンルを考えるうえで、まず参照したいのが、サイモン・フリスの『Performing Rites』(1996)です。本書はジャンルそのものを理論化した研究ではありませんが、音楽の価値判断とアイデンティティの関係を論じた古典として、ポピュラー音楽研究に影響を与えてきました。そこでは「音楽についての価値判断は単なる好みの表明ではなく、自分自身を明らかにする行為でもある」といった旨が主張されています。なぜ人は特定の音楽を愛し、別の音楽を退けるのか? その判断の背後には、その人がどのような価値観を持ち、どのような共同体に属しているのかが表れているというのです。サイモン・フリスの視点は、ジャンルを単なる音楽の分類としてではなく、人々のアイデンティティやコミュニティと結びついたものとして捉える発想へと繋がっていきました。
その後、押さえたいのはキース・ネガスの論です。氏は、『Music Genres and Corporate Cultures』(1999)において、ジャンルがミュージシャンやリスナーだけでなく、レコード会社やメディア、流通システムによっても形作られていることを指摘しました。ジャンルとは自然発生的な音の分類だけではなく、文化と産業が交差する場でもある、という主張です。さらに近年では、こうした視点を踏まえながら、ケレファ・サネの『Major Labels: A History of Popular Music in Seven Genres』(2021。『ポピュラーミュージック大全』として2022年に邦訳)も重要な書籍として挙げられるでしょう。本書は、ロック、R&B、カントリー、パンク、ヒップホップ、ダンス・ミュージック、ポップという七つのジャンルを手がかりにポピュラー音楽の歴史そのものを描いていますが、実はジャンルそのものを定義しようとしているわけではありません。興味深いのは、その過程でジャンル同士の境界線が何度も揺らいできたという指摘です。ロックはR&Bから影響を受け、ヒップホップはディスコやファンクを取り込み、ポップはあらゆるジャンルを吸収しながら発展していく。そこから見えてくるのは、ジャンルとは固定された箱ではなく、絶えず混ざり合い、更新され続ける動的なものであるということです。
こうやって振り返ってみると、ジャンルをめぐる議論の関心が、少しずつ変化してきたことが分かります。かつては「どのような音が鳴っているのか」を分類するための概念として語られていたジャンルは、やがて「誰が聴いているのか」「どのような共同体から生まれたのか」「どのような産業や文化の中で流通しているのか」を考えるための概念としても捉えられるようになりました。そして近年では、それぞれのジャンルが、どのように影響し合いながらポピュラー音楽の歴史を形作ってきたのかを理解するためのレンズとしても機能しています。
ここでわたしが最も伝えたいのは、「ジャンル」という言葉は、決してひとつのものを指しているわけではないということです。これまでの議論をたどるだけでも、その意味が時代や文脈によって少しずつ変化してきたことが見えてきます。ジャンルとは音でもあり、コミュニティでもあり、産業でもあり、歴史でもある。だからこそ、ジャンルの話をすると多くの齟齬が生まれます。ロックのアイデンティティについて話していると思ったら、皆サウンドの話をしていた。ヒップホップ論をふっかけられてラップとビートについて考えていたら、相手が想定していたのはコミュニティの話だった。ポップを理解したと思ったら、それは産業の話だった――そういったことが往々にして起きるのです。ジャーナリストは歴史の意味で使い、DJやラッパーはコミュニティの意味で使い、レコード会社は流通の意味で使い、リスナーはアイデンティティの意味で使うことがあるからこそ、話が噛み合わない。つまり、ジャンルとは単なる分類表ではなく、さまざまなレイヤーが折り重なった文化そのものだということです。
差異から理解すること
となると、ジャンルについて理解するには、さまざまに折り重なったそれぞれを一つずつ紐解き観察しながらも、同時に流動的な総体として捉えていく必要があります。そこでまず初めの一歩として意識したいのが、「差異から理解すること」です。これは音楽に限らずとも、あらゆる芸術鑑賞から文化理解に至るまで、人間が学び経験を蓄積していく際の基本的な認識の方法です。
例示は何でもよいのですが、例えば香水について考えてみましょう。フレグランスを買おうと百貨店に出向くと、たくさんの製品がずらりと並んでいます。さて、あなたの好みのものはどれでしょうか? まず初心者は、クール系か甘い系か、くらいの二択で捉えはじめるでしょう。ところがいくつかの香りを試していくと、フローラルかシトラスかウッディか、といった大まかな分類に気づきはじめます。さらに色々と手に取る中で、ローズ系やアイリス系、アンバー系、ムスク系といった香料の違いも見えてきます。もっと詳しくなると、同じローズ系の香水でも、瑞々しいローズなのか、パウダリーなローズなのか、ダークでスパイシーなローズなのかを語り始めます。つまり香水を理解するとは、「これは瑞々しいローズの香りである」という中身それ自体を覚えるというよりも、ローズというカテゴリーの内部に存在する微細な差異を感じ取れるようになることなのです。
もっと動的な対象――例えば、スポーツ観戦でも同様です。サッカーをしたことがない初心者は、観戦の際も、どこから見たらいいか分からない。しかし、少し真剣に見始めると、攻撃的なチームと守備的なチームがあることに気づくでしょう。「なるほど、自分の応援しているチームは守備的な戦術をとっているのか。なぜなら絶対的なエースストライカーが前線にいるので、その突破力と決定力に依存していて、あとは組織的に守って勝ちきる作戦をとっているのだ」という形で解像度が上がってきます。そうやってしばらく観戦していると、どうやらもっと別の戦術の違いもありそうだということが見えてきます。ポゼッション型やカウンター型、ハイプレス型等、戦い方としていくつかの違いがある。さらに詳しく分析しながら見ていくと、同じポゼッション型のチームでも、実はそこに大きな差異があることにも気づきます。そもそもポゼッションとは「ボール保持によって試合の主導権を握ろうとする戦術」ですが、そこには縦志向のポゼッションを推進する型と、ビルドアップしていく型といったような違いがある。両者は、選手の立ち位置、プレッシングのかけ方など、異なる動きをしていることも見えてきます。さらに、ポゼッション型のチームを欧州リーグからJリーグまで幅広く見ていくと、ポジショナルプレーのひとつの完成型としてグアルディオラという人物が作ってきた型を中心に置くことで、そこに「差異化のマップ」を描けることに気づくかもしれません。そうなると、ポゼッションサッカーの内部にある無数の差異を、ある種の体系化されたような形で見分けられるようになるでしょう。
まさしく、音楽もそれに近いものがあります。ディスクガイドを読んだり、プレイリストを聴いたり、AIに説明してもらうことももちろん有効ですが、それと同時に、「差異化のマップ」を自分の中に描いていくことが一歩目としては大切です。「シューゲイズとは1980年代後半のイギリスで生まれた、轟音のギターサウンドを特徴とするジャンルである」といった説明を100回読んだとしても、実際にはシューゲイズというものはぼんやりとしか理解できません。なぜなら、「シューゲイズ」と「ドリームポップ」の違い、あるいは同じシューゲイズという領域の中にあるマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、スロウダイヴ、ライド、ザ・ヴァーヴの違いを認識してはじめて、その輪郭が立ち上がってくるからです。ということは、ある程度の量を聴くことが欠かせないのは言うまでもないでしょう。たくさんの量を聴くことで差異が認識され、それぞれの対象の輪郭がはっきりしていくからです。
いかにしてヒップホップを理解していったか
ところが、ここで大きな壁が立ちはだかります。そもそも、その差異を感じ取るのが難しい、という問題です。これは新しいジャンルに興味を持ち始めた際、誰もが一度は経験することではないでしょうか。「このジャンルをもっと聴いてみたいのだけど、どれも同じに聴こえるんです」という声を、これまで何度も耳にしてきました。
実際、筆者自身も近い経験があります。わたしは10代の前半に、ハードコアやメタルといったラウドな音楽を好んで聴いており、そこから10代半ばでロック全般を聴くようになりました。ちょうどリアルタイムでIsisやNeurosisといったバンドのアプローチに関心を持つようになり、そこからポストロックというサブジャンル――と今では言いますが当時は「運動」と言ってもいいような熱を帯びていました――を聴き始めた流れで、大文字の「ロック」という広い音楽へ興味が拡大していきました。ここまでは、スムーズに関心を広げていくことができた。なぜなら、ハードコアやメタルといったジャンル内部の差異をある程度身に付けていたがゆえに、それを、ロックという大きなジャンルに応用することができたからです。
ただ、難しいのはその後でした。当時ロックに没頭しながらも、海の向こうに目を向けてみると、USヒットチャートではヒップホップが上位を占めるようになっていることに気づきました。そこで50CENTやLil Wayneといったラッパーを聴きはじめたのですが、これがサッパリ分からなかったのです。ハードコアやメタルからロックには行けたけれど、ヒップホップにはスムーズに移行できない。端的に、何が良いのか、何が凄いのかピンとこない。しかし、アメリカのマーケットではどんどんヒップホップが力を持ち、多くの人がそのビートに乗りはじめている。どうしてもその理由を知りたいと思い、わたしは、名盤と呼ばれる作品をとにかく辛抱強く聴いていくことにしました。中でも、当時ヒップホップ・クラシックとして評価を盤石にしていたNasの『Illmatic』を、集中して聴きました。四六時中リピートしていると、一か月ほど経ったある日、不思議なことが起きました。それまで一様に聴こえていた音楽が、気持ち良く感じられてきたのです。
これは、認知科学でいう「知覚学習」にかなり近い現象かもしれません。わたしはそれまで、何度聴いてもヒップホップの情報量が知覚できていなかったのです。ロックには、メロディ、コード進行、サビ、ギターリフといったものが構成する、いくつかのサウンドの型があります。実はそれ以外にも様々な音が鳴っているのですが、ロックリスナーには、ある特定の情報を優先して拾うような知覚ができあがっているのです。ところが『Illmatic』は、そこに快楽の中心を置いていない。代わりに、ライムの配置やフロウの揺れ、ビートとのズレ、サンプリングの質感、スネアの位置、ベースの鳴りなど、ロックではあまり重要視してこなかった要素が作品の核になっています。つまり、わたしには最初「鳴っている情報」が知覚できていなかった。これは、例えばサッカー観戦の初心者が「ゴール前で攻めている時しかサッカーの面白さが分からない」と言うのと同じです。しかし観戦経験が増えてくると、「攻撃陣が守備の際に繰り出す執拗なプレス」や「ボールがないエリアでの動きや駆け引き」が気になりはじめる。情報量が増えたわけではなく、戦術に対する脳の分類能力が増えたのです。認知心理学では、人はカテゴリーを獲得すると、一気に世界が細分化されることが知られています。わたしは『Illmatic』を何百回も聴くことによって、ある瞬間にその経験が閾値を超えたのでしょう。一定量の場数が蓄積されると、脳の内部モデルが完成し、一気に世界が解像される。『Illmatic』は変わっていないけれど、わたしの耳が変わったのです。
けれども、話はここで終わりません。『Illmatic』の魅力が分かるようになると、ヒップホップを聴くこと自体が楽しくなり、当時の現行の作品も手あたり次第に聴くようになりました。その中にはすぐに惹かれるものもあれば、相変わらず何が良いのかさっぱり分からないものもありました。
ちょうどその頃、わたしの交友関係が少しずつ変わっていきました。クラブに通うようになり、ヒップホップ好きの人たちがいる空間で過ごすことが増えていったのです。振り返ってみると、この変化は、わたしの音楽体験に計り知れない影響を与えました。そこで交わされるのは、ヒップホップの知識を語り合うような会話ではありません。ただ、――いま振り返ってみるとですが――その場の「ノリ」に身を置いているうちに、少しずつ自分の身体感覚が変わっていった気がしました。ファッションが変化し、ボトムスを腰下で履くようになる。それが妙に心地よく感じられるようになった頃から、不思議なことに、低音やグルーヴの気持ち良さも分かるようになってきました。これは、ヒップホップの快楽性を、頭ではなく身体で理解したということなのでしょう。もっと正確に言えば、自分の服装や立ち方、身体のノリそのものが、ヒップホップという音楽の快楽を増幅するようになっていったような感覚でした。
繰り返しますが、わたしはそのとき、ヒップホップの知識を教わったわけではありません。しかし、服装や歩き方、リズム、人との距離感、クラブシーンといった文化そのものに身を置くうちに、自分の感性が少しずつ変わっていきました。この現象を考えるうえで参考になるのが、社会学者のピエール・ブルデューが提唱した「ハビトゥス」という概念です。ハビトゥスとは、ある社会や文化のなかで暮らすうちに、その文化にふさわしい感じ方や考え方、身振りや振る舞いが、意識せずとも身についていくことを指します。たとえば、野球を長く続けてきた人は、ボールが飛んでくると無意識に身体が反応します。さらに、ボールの軌道を自然に予測したり、どこへ動けばよいかを直感的に判断したりすることもできます。これは知識を覚えているからではなく、その文化のなかで培われた感覚や判断の仕方が、身体に深く根づいているからです。
ヒップホップも同じでした。クラブでは誰もが自然と重心を低く取り、独特の歩き方やリズムで音楽を受け止めています。わたしも、知らず知らずのうちにその身振りを身につけていたのでしょう。ボトムスを腰下で履き、そのスタイリングが心地よく感じられるようになった頃から、不思議なことに低音も気持ち良く聴こえるようになっていった。身体の使い方が変わることで、音楽の快楽の感じ方まで変わる。その経験を通して、音楽は耳だけで聴くものではないのだと気づきました。私たちは、身体や文化、人間関係を含めた感覚全体で音楽を聴いているのです。もう一歩踏み込んで言うなら、「ジャンルが分かる」とは、作品について情報を得ることだけではなく、「特定のジャンルを生み出している文化に馴染み、その身体感覚を獲得していくことで、自分自身が変わる」ことなのです。これは、他のジャンル――ジャズ、レゲエ、R&B、テクノ、ハウスであっても、基本的には同じだと思います。
そのような感覚が芽生え始めた頃から、わたしは、ヒップホップに関する知識が驚くほど自然と頭に入ってくるようになりました。ラッパーのリリックやライターの文章を読んでも、「ああ、そういうことを言っていたのか」と腑に落ちる瞬間が増えていったのです。すると、「ニューヨークのブロンクス地区で黒人たちがブロックパーティーを開いていた」という、お決まりのヒップホップ誕生のエピソードも、急に重みを持って迫ってくるようになりました。「だから、このラッパーも、あのビートメイカーも、こういう音や言葉を選んでいるのか」と膝を打つような発見が増え、点として存在していた知識が一本の線としてつながり、音楽と歴史がようやく実感を伴って結びついてきたのです。逆に言えば、最初にブロンクスの歴史だけを教わっても、わたしにはその意味を理解することはできなかった。ヒップホップを耳と身体で経験したあとだったからこそ、その歴史を深く納得するに至ったのです。そうすると、「なぜヒップホップではこれほどまで低音が重視されるのだろう?」という疑問についても、自分なりの答えを持てるようになりました。もちろん、それが唯一の正解だと言いたいわけではありません。大切なのは、知識を受け売りすることではなく、「わたしはこう考える」という見解を、自らの実感を伴って語れるようになることです。たとえば、わたしなら次のように考えます――ヒップホップの創始者のひとりである DJ Kool Herc は、ジャマイカからニューヨークへ移住し、ジャマイカのサウンドシステム文化に着想を得たDJスタイルをブロンクスで発展させました。そこでは、音楽は耳で聴くだけではなく、重低音によって身体を揺らし、人々を踊らせるものでした。さらに、ブロックパーティーという屋外空間では、繊細なメロディよりも、身体に直接響き、その場を満たすキックやベースが大きな役割を果たします。ヒップホップが誕生した当初から低音を重視してきた背景には、こうしたジャマイカ由来の音響文化やブロックパーティーという空間的な条件も、大きく関わっていたのではないでしょうか。
以上のような経験から、わたしはジャンルに関するひとつの仮説にたどり着きました。それは、「ジャンルとは、歴史が身体に沈殿したものである」ということです。メタルにはメタルの身振りがあり、パンクにはパンクの身振りがあり、レゲエにはレゲエの身振りがある。それぞれのジャンルは、生まれた環境や歴史を映し出しているのです。ヒップホップであれば、公園や路上でのブロックパーティー、ターンテーブルを囲む人々、大音量で鳴る低音、即興で言葉を交わす空気、そしてマイノリティとして自己を表現する切実さといった環境の積み重ねが感覚として受け継がれ、それらが音楽そのものを形づくっている。ハウスであれば、シカゴのクラブ、DJブースを囲むダンスフロア、身体を貫く四つ打ちのリズム、夜通し踊り続ける高揚感、そしてLGBTQコミュニティや黒人・ラテン系コミュニティが差別や抑圧から解放され、自分らしくいられる空間として育まれてきた歴史が感覚として受け継がれている。ゆえに、ジャンルを理解するとは、知識を増やすことだけではありません。そのジャンルが育まれた感覚を、自分の中に少しずつ宿していくことなのです。
「ジャンルシームレス」の時代
さて、ここまでの議論は、2010年代までであれば、それだけでひとつの結論になっていたでしょう。わたしは、「ジャンルを理解する」とは、そのジャンルが生まれた歴史や文化、そして身体感覚を自分の中に獲得していくことだと述べました。少なくとも、当時の音楽を理解するうえでは、それで十分だったのです。しかし、最後にもう少しだけ、ジャンルについて話をさせてください。ここからは、まさに現在進行形の話です。というのも、音楽ジャンルについての認識が、2020年代に入って大きく揺らぎ始めたからです。現在の音楽を理解するには、その視点だけでは足りなくなってきた。ポストジャンルといった動きが急速に進み、アーティストたちはひとつのジャンルに属するのではなく、複数のジャンルを自在に横断しながら作品を生み出すようになったことをあなたもご存知でしょう。
かつて、ジャンルは音楽を理解するための最も重要な座標軸でした。それぞれのジャンルの歴史や文脈、価値観を知ることが、その音楽を理解する道だったのです。だからこそ、音楽を深く知ろうとする人ほど、ジャンルの内側へ潜っていった。ところが、2010年代後半から2020年代にかけて、その前提は大きな変化を見せます。ヒップホップ、エレクトロニック、ロック、ジャズ、アンビエント──そうした複数のジャンルを自在に横断しながら、自分だけの表現を組み立てていく音楽家が主流になってきました。もはやそこでは、「何のジャンルなのか」というよりも、「どのような感覚や世界観を立ち上げているのか」が重要になってきています。これについては、筆者が〈Post-Genre Aesthetic〉という概念を提唱した記事がWEBで確認できるので、興味がある方は読んでみてください。そこでは、音楽家自身に固有のルーツ、身体、思考といったものに立脚した美意識から生まれる世界観を、Aesthetic=美学と呼び、論じています。
もっとも、これはジャンルが不要になったという意味ではありません。むしろ、その逆です。現在、多くのアーティストは複数のジャンルを横断しながら作品を生み出しています。しかし、それはジャンルを無視しているのではなく、それぞれのジャンルが育んできた歴史や文化、身体感覚を深く理解したうえで、それらを編集しているのです。つまり正確には、現代は「ジャンルレス」の時代ではなく、「ジャンルシームレス」の時代と言えるでしょう。ボーダーは曖昧になりましたが、その境界を越えるためには、どこに境目があるのかを知らなければなりません。だからこそ、ジャンルを学ぶことの重要性は決して失われていません。むしろ、ひとつのジャンルだけを知ればよかった時代以上に、多様なジャンルの歴史を理解し最新の動向をキャッチすることが求められるようになっています。美学とは、ジャンルの代わりになるものではない。ジャンルという文化的な蓄積の上に立ちながら、それらをどのように組み合わせ、新しい世界観として立ち上げるかという編集の思想を指しているのです。
だからこそ、いま音楽を言葉にするためには、ジャンルを理解するだけでは足りません。その先にある、「なぜ、この組み合わせなのか」「なぜ、この質感なのか」「なぜ、この世界観なのか」を分析する視点が必要になっています。ゆえに、ジャンルを理解することは、音楽を理解するための終点ではない。むしろ今、それは出発点です。2020年代のアーティストたちは、ひとつのジャンルに所属するのではなく、複数のジャンルが育んできた身体感覚を横断しながら、新しい美学を立ち上げているからです。次に必要になるのは、その作品がどのような感覚や世界を目指しているのかを読み解く視点だと思います。
さて、今回は「音楽をどう理解するか」という問いに対して、ジャンルという視点から考えてきました。次回は、それを社会へ届ける際に必要になる形式について考えていきます。レビューとインタビューでは、求められる観点が違う。レポートと論考では、期待される役割が異なる。音声コンテンツにはまた別の機能がある。さらに言えば、インターネットとSNSによって誰もが自由に感想を発信できるようになった現在、音楽を言葉にするという取組それ自体も、大きな転換点を迎えています。では、これからの時代、音楽について話す/書く立場に求められているものは何なのでしょうか? 次回は、「音楽を言葉にする」という営みそのものを、いまの時代に応じて再定義してみたいと思います。いよいよ、この連載も佳境に差しかかってきました。