『スティール・ボール・ラン』は「大きな物語」と「小さな物語」の対立? ジャイロとジョニィの友情が意味するもの

 アニメ『スティール・ボール・ラン ジョジョの奇妙な冒険』(1st STAGE)が、2026年3月19日(木)よりNetflixにて世界独占先行配信されている。原作は、荒木飛呂彦の人気コミック『ジョジョの奇妙な冒険』の「第7部」にあたる作品だ。

 そこで本稿では、同作で描かれている、近代(モダン)を象徴する「大きな物語」と、現代(ポストモダン)を象徴する「小さな物語」(個人の物語)の対立について考えてみたいと思う。

※以下、『スティール・ボール・ラン』のネタバレを含みます。原作を未読の方はご注意ください。(筆者)

第6部までとは異なるパラレルな世界の物語

 荒木飛呂彦の『スティール・ボール・ラン』は、2004年から2011年にかけて、「週刊少年ジャンプ」および「ウルトラジャンプ」にて連載されたロードムービー風のバトルアクション・コミックである(注・連載開始時は、新規の読者獲得のため、本作が「ジョジョ」シリーズの第7部であることは明らかにされていなかった)。

 周知のとおり、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズは、“ジョジョ”の略称(愛称)を持つ(そして血のつながりのある)主人公たちが、一作ごとに世代交代していく継承の物語だが、第6部(「ストーンオーシャン」)のクライマックスで、ラスボス・プッチ神父が世界を「一巡」(厳密にいえば、“ほぼ”一巡)させてしまったため、第7部以降は、第1部から第6部までとは異なるパラレルな世界線の物語としてリスタートしている。

 主人公は、ジョニィ・ジョースターとジャイロ・ツェペリのふたり。物語の序盤(第2話)で、ジョニィによる「この『物語』は、ぼくが歩き出す物語だ」というナレーションが入りはするものの、実質的には(“ジョジョ”ではない方の)ジャイロ主導の物語といってよく(たとえば、ジャンプ・コミックスの第1巻のカバー画は、ジョニィではなく、ジャイロの顔のアップである)、その点では、長大な「ジョジョ」シリーズの中でも特異な作品であるといっていいかもしれない。

©︎LUCKY LAND COMMUNICATIONS/集英社・ジョジョの奇妙な冒険SBR製作委員会

ラスボスはなんとアメリカ合衆国の大統領

 物語の舞台は、19世紀末の米国(アメリカ合衆国)。総距離6,000キロにもおよぶ、乗馬による北米大陸横断レース「スティール・ボール・ラン」(優勝賞金5,000万ドル)の参加者の中に、ジャイロ・ツェペリという名の漢(おとこ)がいた。ネアポリス王国の医師にして死刑執行人でもある彼は、ある無実の少年を国王の「恩赦」で救うために、この過酷なレースへの参加を決めたのだ。

 一方のジョニィ・ジョースターは、かつては天才騎手としてその名を轟かせていたものの、街なかで起きたある揉め事の末、銃で撃たれてしまい、いまは下半身不随になっている。しかし、偶然、ジャイロが使う鉄球の「回転」により立ち上がることができた彼は、その“秘密”をつかむために、ジャイロとしばらく行動をともにする(すなわち、レースに参加する)決意を固めるのだった。

 レースの主催者は、表向きはスティーブン・スティールという希代のプロモーターだが、その裏には、第23代アメリカ合衆国大統領、ファニー・ヴァレンタインの壮大な計画(野望?)があった。それは、北米大陸の各地に散らばる「聖人」の骨をレースの参加者たちに集めさせて、奪う、というものだった。ヴァレンタインによると、全ての骨が集まったとき、アメリカが世界の中心になる――ということなのだが……。

「大きな物語」と「小さな物語」

 さて、いささか前置きが長くなってしまったが、ここから先は私が冒頭で述べた、「大きな物語」と「小さな物語」の話をしたいと思う。

 かつてフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールが提唱したように、現代社会では、近代(モダン)社会を象徴していた「大きな物語」(大多数の人々に共通する普遍的な正義や幸福、理想など)が失われている。「大きな物語」が信じられている世界では、宗教、科学、国家など、“わかりやすい”権威が社会の中心にあるため、人々は大きな時代の“流れ”に身を委ねがちである。

 一方、「ポストモダン」の時代となった現代では、そうした「大きな物語」は影を潜め、個人による多様な「小さな物語」の集積として社会が形成されている。

 これを、『スティール・ボール・ラン』の登場人物たちに当てはめていえば、「大きな物語」の体現者がヴァレンタイン大統領、「小さな物語」の体現者が、ジャイロとジョニィのふたり、ということになるだろう。

©︎LUCKY LAND COMMUNICATIONS/集英社・ジョジョの奇妙な冒険SBR製作委員会

 まず、ヴァレンタインだが、彼の「正義」は「アメリカの繁栄」であり、そこに“悪意”はない。その代わり、彼は目的達成のためには多少の犠牲は厭わないという偏った考えの持ち主でもあり、それは、他者の犠牲だけでなく、自らの犠牲も含まれる(彼が使う「スタンド(異能)」は、「Dirty Deeds Done Dirt Cheap(D4C)」という、パラレルワールドに他者を送り込んだり、引き寄せたりできる能力であり、物語の序盤に存在していた「基本世界のヴァレンタイン」は、途中からパラレルな「彼」に入れ替わっているのだ)。

 また、その“信念”は、物語のクライマックスにおいて、敵であるはずのジョニィの心すら揺るがすものであった。つまり、ファニー・ヴァレンタインという男を突き動かしているのは、“アメリカが世界の中心となり、それが多くの国民の幸せにつながる”という強い想いであり、それは、「大きな物語」が信じられていた時代ならではの発想でもある。

 では、物語の主人公であるジャイロとジョニィのふたりはどうか。先にも述べたように、前者は、ある無実の少年を解放するため、後者は、自らの足を治すためにレースに参加しているわけであり、(「聖人」の骨の存在を知ってからは、多少は「社会」のことを考え始めるとはいえ)あくまでも「個人の問題」と、しだいに芽生えていく「友情」が、彼らの戦いの動機になっている。そんな彼らは、ポストモダンの時代が象徴する「小さな物語」の多様性を体現しているキャラクターたちだといえよう。

“いま”という混迷の時代を生き抜くために

 要するに、わかりやすい巨大な権威が存在しない時代では、ジャイロやジョニィのような、自分の考えを持っている「個人」だけが、“見えない敵”に抗えるのだ(レースのゴールが、西海岸ではなく、ニューヨークに設定されているのも、“新しい時代”の到来を表わしているのだろう)。いずれにしても、大事なのは、大きな時代の流れに身を委ねるのではなく、自らの頭で物事を考え、自らが“正しい”と思う方向に向かって納得するまで行動する、ということなのではないだろうか(物語終盤における、ジャイロ・ツェペリの悔いのない“生き様”を見られたい)。

 むろん、現代は、ポストモダンの時代すら越えて、「ポスト・ポストモダン」の時代に突入している、という見方もできるだろう。ならばなおのこと、ヴァレンタインが夢見た「大きな物語」と、ジャイロとジョニィが貫いた「小さな物語」の対立は、私たちが“いま”という混迷の時代を生きていくうえでの、なんらかの手がかりを与えてくれるかもしれない。

■配信情報
『スティール・ボール・ラン ジョジョの奇妙な冒険』
Netflixにて2026年3月19日配信開始
キャスト:坂田将吾(ジョニィ・ジョースター役)、阿座上洋平(ジャイロ・ツェペリ役)
監督:木村泰大、髙橋秀弥
シリーズディレクター:加藤敏幸
シリーズ構成:小林靖子
キャラクターデザイン・総作画監督:津曲大介
音楽:菅野祐悟
音響監督:岩浪美和
アニメーション制作:david production
©︎LUCKY LAND COMMUNICATIONS/集英社・ジョジョの奇妙な冒険SBR製作委員会
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