「どこにでも圏論は転がっている」 加藤文元が語る、カルボナーラから学ぶ究極の思考法

加藤文元『はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門』(ブルーバックス)

 2025年11月6日、東京神保町の書泉グランデにて、数学者・加藤文元の最新刊『はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門』(ブルーバックス)の刊行記念イベントが開催された。平日夜の開催にもかかわらず会場は満席となり、数学ファンからプログラミング関係者まで、幅広い層の観客が詰めかけた。

 圏論は数学の一分野で、モノ同士の「関係性」やその「構造」を抽象的に扱う理論だ。モノの中身や要素について調べたり考えたりするのではなく、モノとモノをつなぐ「矢印(射)」を用いて議論を進めていく。矢印を手がかりに考えることで、異なる分野のあいだに共通する構造を見出したり、分野を超えて理論を応用したりすることが可能になる。

 近年ではプログラミングや認知言語学、哲学など、数学以外の分野でも圏論への注目が高まっている。しかし、「関係性」という極めて抽象的なものを扱うためか、一般向けの入門書はまだ少ない。刊行点数2300点を超えるブルーバックスでも、圏論を主題とした書籍は本書が初めてだったという。

 本書は、その抽象性の高さから近寄りがたい印象を持たれがちな圏論を、漫才のネタやファミレスのメニューといった身近な例を使いながら解説する「異色」の数学書だ。数学にあまり馴染みのない読者でも無理なく読み進められるように、様々な工夫がこらされている。刊行直後から大きな話題を集めており、数学書としては異例のペースで売れているという。

ブンゲン先生の圏論遍歴

ブンゲン先生こと加藤文元氏

 著者の加藤文元の正しい読みは「かとう・ふみはる」だが、小学生の頃から「ブンゲン」と呼ばれており、「ふみはる」と呼ばれることの方が少なかったという。みんなから「ブンゲン」と呼ばれるため、大学の後輩からは文が名字、元が名前で「文 元さん」と勘違いされていたとか。海外の研究者からも“Bungen”の愛称で呼ばれており、国や言語を超えて浸透してきたその呼び名にちなみ、本書の副題にも「ブンゲン先生」の名が添えられている。

 そんなブンゲン先生の「圏論」との最初の出会いは、学部生時代にさかのぼる。「岩波講座 基礎数学」シリーズの河田敬義『ホモロジー代数』の最終章で圏論が扱われており、そこで初めて接したという。

 すでに群論などの議論を通じて「射」の概念には馴染みがあったが、この本を通して、圏論が「数学をモデリングするための枠組み」であることに気づき、新鮮な驚きを覚えたと振り返る。

 なかでも強く印象に残っているのが、「蛇の補題(スネーク・レンマ)」と呼ばれる定理の証明だという。苦戦して図書館で文献を探したところ、ビルガー・イヴァセン『層のコホモロジー』(シュプリンガー・フェアラーク東京)に証明が書かれており、「構造だけでも証明できるんだ」という大きな感動があった、と振り返った。

 その後、2010年ごろを境に圏論への印象は大きく変わった。それまで圏論は主に代数幾何学など抽象的な数学の道具として認識していたが、このころからプログラミングへの応用や、より広い文脈での圏論の可能性に触れるようになる。特に、David I. Spivak 著・ 川辺治之 訳『みんなの圏論』(共立出版)は衝撃的で、「圏論はもう数学の枠を出てみんなのものになっているんだ」と感じさせてくれる一冊だったという。

漫才、ハンバーグ、カルボナーラ

もなかの圏から手巻き寿司の圏へ

 「漫才の話から始めている圏論の本はなかなかないのでは」と笑いを誘いつつ、ブンゲン先生は『はじめての圏論』の内容について語った。

 本書は、2019年のM-1グランプリ王者であるミルクボーイのネタ『もなか』の話題から始まる。ネタの内容をもとに書き起こされた「もなかの家系図」を出発点に、圏論の世界へと読者を誘う構成だ。

 圏論において重要なのはモノそのものではなく、モノ同士の関係性や構造である。「もなかの家系図」の次に、同じような形の「手巻き寿司の家系図」を並べ、「マカロンとクレープは似ている」では共感してもらうのは難しいけれど、「“マカロンともなかの関係”と“クレープと手巻き寿司の関係”は似ている」なら共感してもらえるかもしれない。このように、圏論は数学的な概念だけでなく、メタファー(隠喩)や「人間が似ていると思うもの」まで扱うことができる。

ハンバーグの圏

 続いて紹介されたのは、第6章に登場する「ハンバーグの圏」の図だ。これはファミレスのメニューを圏として捉えたものだという。ブンゲン先生はお子さんと一緒によくファミレスに行くそうで、そこで眺めていたメニューの構造に着目したのだという。

 この図ではハンバーグ料理が「チーズをのせる」「各種のソースをかける」「ソースで煮込む」といった3種類の矢印でつながれている。矢印で結ばれた多様なハンバーグメニューには関係性が織り込まれ、立派な「圏」だと考えることができる。

 さらに議論は、圏論における重要概念「関手」におよんだ。ハンバーグにライスセットをつけると、「ハンバーグ定食」になる。単品のハンバーグを定食へと変換することを考えれば、ライスセットというオプションは、ハンバーグの圏の中の一メニューではなく、「ハンバーグの圏」から「ハンバーグ定食の圏」への「関手」なのだといえる。ライスセット、パンセット、そしてライスセットからパンセットへの変更……圏論の言葉を使うことで、こうした変換の構造を厳密に記述できるようになるのだ。

 漫才やファミレスのメニューといった身近な題材を使っていると聞くと、「数学や科学の話題を例え話で説明するのはあまり好きじゃない」という読者もいるかもしれない。しかし、ブンゲン先生によれば、圏論において、これらは「例え話」ではなくあくまで“本物の圏”なのだという。日常のなかに圏がひそんでいることを示すことで、圏論を現実から切り離された抽象理論ではなく、「世界を見直すための道具」として提示しているのが本書の特徴だ。

カルボナーラの作りかたを圏で表すことができる

 終盤では、第9章に登場する「カルボナーラの作りかた」の図も取り上げられた。ここまで登場してきた図が、圏の構造を説明するための図解だったのに対し、「カルボナーラの作りかた」は「ストリング図式」と呼ばれるより厳密なものだ。ここまでの図解では丸で表現されていた対象(モノ)が、ストリング図式では線で表現される。図解と厳密な図式のあいだを行き来しながら、読者に圏論の見方を体験させようとする構成が印象的だ。

質疑応答──出版の経緯から音楽との類似点まで

 質疑応答の時間では多種多様な質問が寄せられた。

 まず挙がったのは、「ブルーバックスから出版することになった経緯」について。担当編集者から声がかかり、「圏論の本を出しませんか」と提案されたのがきっかけだという。「ブルーバックスに圏論の本がないの?」と、当人も最初は驚いたそうだ。書き始めは好調だったものの、後半に進むにつれて題材選びが難しくなっていったと率直な苦労も明かされた。

 さらに、大学生のころに合唱サークルに所属していたというブンゲン先生の趣味と絡めて、「数学者はよく数学と音楽は似ているというが、なぜなのか」という質問も投げかけられた。

 自著『数学の想像力』(筑摩選書)の第1章「背理法の音楽」における議論をひきつつ、「どちらも論理的な構造を持っているからこそ、似ていると感じるのだろう」というのがブンゲン先生の答えだ。そして、この「似ている」という感覚をさらに掘り下げ、異なる領域のあいだで共通する構造をとらえ直すための道具としても、圏論は大きな役割を果たしうるだろうと語った。

 イベントは「どこにでも圏論は転がっている」というメッセージとともに締めくくられた。抽象的と敬遠されがちな数学理論が、実は日常の至る所に潜んでいる。本書はその発見の楽しさを伝える一冊だ。これまで無関係に見えていたものが、圏論の目を通すことでどのようにつながって見えるのか──。その驚きと楽しさを味わいたい読者に、ぜひ手に取ってほしい。

■書誌情報
『はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門』
著者:加藤文元
価格:1,320円
発売日:2025年10月23日
出版社:講談社
レーベル:ブルーバックス

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