『チ。』魚豊の原点が劇場アニメ化  走ることにすべてを懸けた男たちの物語『ひゃくえむ。』の魅力

 9月19日より、劇場アニメ『ひゃくえむ。』の全国公開がスタートする。同作は大ヒット漫画『チ。―地球の運動について―』を手掛けた魚豊の連載デビュー作で、その内容にはすでに圧倒的な才能の片鱗が見られる。

 今回は原作のストーリーをもとに、どのような魅力をもつ作品なのか詳しく紹介していきたい。

 物語の主人公は、人よりも走るのがはやい小学6年生・トガシ。走るのが好きなわけではないが、ただ生まれつきの才能だけで100m走で全国1位になり、周囲にチヤホヤされる充実した毎日を送っていた。

 そんなある日、小宮という少年が学校に転校してくるが、内気で足も遅く、初日からイジメを受けてしまう。また小宮は現実逃避のためにランニングに没頭しているのだが、そんな彼に対してトガシは「たいていの問題は」「100mだけ誰よりも速ければ全部解決する」と励まし、速く走るための方法を伝授する。そして小宮は思わぬ才能を発揮し、トガシのライバルとなっていく……。

 魚豊は『チ。―地球の運動について―』では「知ること」を一貫したテーマとして作品世界を作り上げたが、『ひゃくえむ。』のテーマは「走ること」だ。100m走に人生を懸けた登場人物たちの栄光と没落を通して、その意味をさまざまな角度から映し出している。

 トガシにとって「走ること」は、元々社会を快適に生きるための手段でしかなかった。しかし自分より速くなるかもしれない小宮との出会いによって、その意味は変質していく。「敗北の恐怖」を植え付けられるのだ。

 中学校に上がって才能の衰えを実感すると、さらにその恐怖は強まっていく。もはや「走ること」は自分の居場所を作るためのお手軽な手段ではなく、“勝ち続けなければ自分の居場所を失う”という強迫観念的なプレッシャーへと変わるのだった。

 それ以降もトガシの半生は、つねに「走ること」と共にある。その意味付けが人生のステージに応じてどんどん変わっていき、哲学的な思考が繰り広げられるところが同作の面白さと言えるだろう。

「走ること」を通じて描かれる人生の意味

 一方で小宮の半生においても、「走ること」が大きな位置を占めている。その情熱はトガシを凌駕するほどで、ひたすら速く走ることに取り憑かれた姿は狂気じみており、ほかの登場人物からは「怖い」とすら評されるのだった。

 一見すると対照的な生き方に見えるトガシと小宮だが、その足跡は何度も交差し、お互いに大きな影響を与え合っていく。恋愛も友情も抜きにして、短距離走に人生を懸けた2人をとことん純粋に描き出していくという意味で、同作は漫画史でも稀にみる“怪作”と言えるだろう。

 とはいえ、同作が表現しているものの射程は、たんに「走ること」に留まらない。そのテーマは「なぜ他人と競争するのか」「なぜすべてを犠牲にしてまで栄光をつかむのか」といった問いにつながっていき、ある種の人生論にまで到達するからだ。

 実際に新装版コミックスの下巻に収録されたインタビューにて、魚豊は100m走自体が「生きていることのメタファー」だと語っていた。『チ。―地球の運動について―』や『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』など、魚豊の作品ではつねに“いかに生きるべきか”という壮大な主題が扱われるが、同作はそれをもっともシンプルかつ直接的に追及した作品ではないかと思われる。

 魚豊の燃え上がるような初期衝動が伝わってくる『ひゃくえむ。』。劇場アニメと合わせて、原作漫画もぜひ読んでみてほしい。

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