【短期集中連載】戦後サブカルチャー偉人たちの1945年 第五回:焼け跡のサバイバーたち

色川武大、原節子、山田太一……それぞれの戦争体験とは? 「焼け跡のサバイバーたち」の数奇な運命

原節子:日独同盟をうながした映画『新しき土』への出演

原節子(本名・會田昌江)/女優
・1920年6月17日〜2015年9月5日
・1945年の年齢(満年齢):25歳
・1945年当時いた場所:日本国内 神奈川県横浜市保土ヶ谷

『原節子の真実』(新潮社)

 終戦直後の一時期、「原節子はマッカーサー元帥の愛人」という奇妙な噂がささやかれたという。これは戦前の映画界での彼女のキャリアに関係している。

 横浜の生糸商の娘として生まれた原には、年長の姉が二人いた。二番目の姉で14歳上の光代は映画監督の熊谷久虎と結婚しており、この義兄の勧めで、1935年に原は私立横浜高等女学校(現在の横浜学園高等学校)を中退して日活に入る。当時は世界恐慌の影響で生糸の輸出が激減し、家計が苦しかったことが一因だ。

 演技には素人の原は演劇関係者や元芸妓などの女優のなかで浮いていたが、山中貞雄監督の目に留まり、時代劇の『河内山宗俊』に出演。その撮影を見学に来ていたドイツの映画監督アーノルド・ファンクが原に興味を抱く。ファンクはこのとき、日独合作の映画『新しき土』(ドイツでのタイトルは『侍の娘』)の準備を進めていた。この映画は、ナチ政権と関係の深い軍需企業経営者フリードリヒ・ハックの意向を受け、ドイツの親日感情を高め、日独防共協定の締結をうながす意図を持った作品だ。

 原が演じたヒロインの光子は、ドイツに留学して西洋的な価値観を持つ主人公の輝雄(小杉勇)と対になる日本的な女性として描かれた。公開を控えた1937年春、原はプロモーションのためドイツに招かれ、義兄の熊谷に付き添われ、満洲を経由してシベリア鉄道でヨーロッパに向かう。ドイツ到着後は、映画をプロパガンダに活用した宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスらと会見し、各地で日独友好を唱えるあいさつ回りに追われた。さらにフランスとアメリカを経由して帰国するが、ほどなく日華事変(日中戦争)が起こり、日本の映画界は急速に戦時色を強めていく。

 戦時下の原は、大日本帝国のイデオロギーを純朴に信奉し、国家への協力や戦意高揚を意図した数々の作品に出演した。たとえば、1939年には熊谷が監督した『上海陸戦隊』に出演するが、撮影で訪れた上海では現地住民の反日感情が強く、乗っていたタクシーに石を投げられたという。日米開戦後の1942年には『ハワイ・マレー沖海戦』で、主人公である海軍航空兵の姉の役を演じている。

 戦局が傾いてきた1944年には映画製作も減って仕事は少なくなる。石井妙子の評伝『原節子の真実』(新潮社)によれば、この時期の原は熊谷ともにスメラ学塾という国家主義団体に参加していた。熊谷は白人国家に対抗してアジア人の連帯を唱えるアジア主義者で、スメラ学塾の名は皇(すめら)と古代メソポタミアのシュメールに由来する。もともと熊谷はマルクス経済学者の河上肇の影響を受けた左翼青年でもあった、五・一五事件や二・二六事件のように、急進的な国家主義は一種の革命運動にも転じる。熊谷は、陸軍大佐の町田敬二、作家の火野葦平らとともに九州に独立政府を樹立して徹底抗戦する構想を進め、福岡に向かった。時に1945年7月のことだ。

『原節子 映画女優の昭和』(大和書房)

 だが、直後に終戦を迎える。原は熊谷が東京にいた間は行動を共にしていたようだが、5月の空襲で住居を失い、終戦時は実家のある横浜市保土ヶ谷にいた。占領軍が上陸してくると、映画業界人らは戦時下と一転して、GHQの方針に従い”民主的”な映画を撮るようになり、原は「映画ってなんだろう」と考えたという。

 戦後の原の代表作といえる小津安二郎監督の『東京物語』(1953年)のヒロイン紀子は、まるで生活臭を感じさせない清廉な雰囲気だ。しかし、終戦直後の原は、戦争で働き手を失った姉の一家などの親族を養わねばならず、極貧を味わった。千葉伸夫による評伝『原節子 映画女優の昭和』(大和書房)には、福島県の農村まで食料を買い出しに行き、2斗(36キログラム)もの米を背負って帰った話が記されている。

 他の一部の女優がそうしたように、占領軍への慰問を通じて米軍関係者と仲良くすれば金銭的な援助や便宜が得られたはずだが、原は頑なに米兵との交際を断ったという。それではなぜ、冒頭の噂が生まれたのだろうか。理由はマッカーサーが知っている日本の女優を問われて、『新しい土』に出演した原の名を挙げ、その話に尾ひれがついた結果だという——良くも悪くも、原は戦前から国際スターだったのだ。

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