「人前でご飯を食べるしんどさがありました」生湯葉シホ『音を立ててゆで卵を割れなかった』に込めた他者との違和感
新鋭のライターとして注目を集める生湯葉シホ氏が、自身がこれまで「食べられなかったもの」を振り返って綴った著書『音を立ててゆで卵を割れなかった』(アノニマ・スタジオ)。異様に静かな喫茶店で出てきたゆで卵、葬儀後の食事会でのかけうどん、修学旅行の夕食のカニなど、日常の何気ない食べ物を前にして直面した戸惑いについて綴っている。ひとつひとつの「食べられなかった」経験の背後には、自己と他者との関係性における微妙な違和感が見え隠れする。著者・生湯葉氏に、本書執筆の背景について話を聞いた。
周りのリアクションが気になるタイプ
ーー「食べられなかったもの」というテーマにした理由を教えてください。
生湯葉:最初に担当編集者からお声がけをいただいた時にウェブのエッセイを読んでくださっていて「コミュニケーションにまつわる失敗や、内省的な繊細さをテーマに本を書きませんか」と言われたんです。ただ、それを書くにあたって、何か別の軸がないと自分としても飽きてしまうし、読者の側からしても結構重いものになってしまうかなと思いました。
そこで最初にこの本に収録された「真夏の午後のかけうどん」のエピソードが、自分の中で印象に残っていたことを思い出しました。これは自分がうどんを「食べられなかった」話だったんです。そういう軸であれば、勝手に考えすぎて空回りしてしまう自分の性質を表せるエピソードがたくさんあるかなと思いました。
ーーどんなご経験だったのでしょうか。
生湯葉:小学生の頃の夏の話なんですけど、親戚の葬儀に出る機会がありました。身近な人の死を実感するような経験は初めてだったからか、強烈に覚えているんです。そこでは大人と子どもの大きな境界みたいなものを感じました。親戚の大人たちは当然ながら、人が亡くなって葬儀に出ることには慣れています。でも子どもの自分にとっては新鮮な経験でした。葬儀後にみんなでお蕎麦屋さんに行って、葬儀の疲れを癒しつつ、故人を偲ぶような食事会が開かれました。
すると、亡くなった親戚を慕っていたおばちゃんが一人だけ食事を置いて「タバコを吸いに行く」と言って、店の外に出ていってしまったんです。その時、私はかたちだけおばちゃんのことを気遣って、うどんを食べずに待っていました。でも、実際は泣いていたからその場にいなかったんだと、あとから周りの大人たちから知らされました。自分はそんなことも気づけなかったんだな、まだ子どもで幼かったなと感じました。
ーー表題作「音を立ててゆで卵を割れなかった」も、同じように「食べられなかった」経験ですね。
生湯葉:このゆで卵のエピソードも最初の頃から念頭にありました。自分の中で食べられなかった話として記憶に残っていました。喫茶店でモーニングを頼むと、ゆで卵がついてきたんです。でもそのお店がものすごく静かで、周りの人も新聞を読んでいたりして、各々の時間を静かに過ごしていました。そこでゆで卵を食べようとエッグスタンドに手を伸ばした瞬間に、「卵を割ったら『ゴン!』という音が鳴って店内に響くな、みんながこっちを見たら嫌だな」と思ったんです。
それでエッグスタンドに押し付けてみたりと、極力音を立てないようにする方法を考えたんですけど、どうしてもいい方法が見つからなくて。どうしようかと5、10分悩み続けた後に、もうどうしようもなくなって、食べられないまま残して帰ってしまいました。自分の性格を象徴するような話だったなと思っています。
ーーご自身の人生を振り返ると、そういう食べられなかった記憶が多くありましたか。
生湯葉:今の話とは少し違うんですけど、10代の頃以来、ずっと一貫した悩みとして、人前でご飯を食べることに対するしんどさがありました。今では会食恐怖症という言葉も知られていますよね。だから友達など仲良い人と外食すると聞くと「なんか気が進まないなぁ」という気持ちが最初に出てくるんです。自分は周りのリアクションが気になるタイプで、人前でリラックスして食事ができませんでした。自分の中では、食事・外食=しんどかったなという気持ちがあります。
ーー食べる時というのは性格や気質が出やすいものでしょうか。
生湯葉:出やすいような気がしますね。外食の場合は、基本的にその人と会話することが前提にありますよね。あと、格式ばったお店だといわゆるテーブルマナーがあって、自分の所作が人にジャッジされているような感覚がありました。そういうマナー、ルール、気配りが如実に現れる場所なのかなと思っています。
おいしいものを食べた時の嬉しさは根強くある
ーー生湯葉さんは食べること自体は、お好きですか?
生湯葉:好きなんですよ。こんな内容を書いといてなんですけど(笑)。
ーーそこでの好き嫌いには、何か違いはあるものでしょうか。
生湯葉:今、迷いなく食べるのが好きなんですよと答えて、自分でもびっくりしているんですけど(笑)。食べ物の味そのものにまったく関心がないような方もいるじゃないですか。でも私は大人になった今となっては、友達とおいしいお店を探して行くのも好きですし、自分でこだわりを持って作ってみるのも好きなんです。
食べられなくなってしまう時というのは、食事をともにしている人のちょっとした仕草などがきっかけになります。「あれ、この人帰りたいのかな」「店員さんもしかして嫌がっているのかな」とか、考え始めてしまうと止まらなくなってしまって。これ以上食べ進められないかもしれないとなってしまうんですよね。
ーーおいしかった幸福な経験をエッセイにしようとは思わないものですか。
生湯葉:一般的に食エッセイというと、食べることの嬉しさやおいしかった記憶にフォーカスを当てることが多いと思います。過去を振り返ると「おいしかったなあ」という思い出はたくさんあるんですけど、それを書こうとは思わないかもしれないですね。
ーーむしろそこでの感情の揺れや人間関係などにご関心があるんでしょうか。
生湯葉:そうですね。食べることをめぐっておいしかった記憶というよりも、そこで自分の心がすごく動いたというようなプラスの記憶だったならば、書くかもしれません。そうじゃなければ、わざわざ書いてもなと思ってしまうんです。
ーー生湯葉さんにとって、食べることはどういうことだと思いますか?
生湯葉:自分の中途半端な部分だと思うんですけど、食べることに関して一貫して苦痛だと言えるわけでもありません。とはいえ、自分の心を温めてくれるものだとも絶対に言えないんです。そのアンビバレントな気持ちがあります。食べることと言われた時に、そこにともなう苦痛を真っ先に思い出しはするんですが、とはいえ人と何かを食べた時の喜びやおいしいものを食べた時の嬉しさは根強くあるんですよ。いまだに何なんだろうなと思いますね。