【短期集中連載】戦後サブカルチャー偉人たちの1945年 第二回:戦時下の表現者たち

江戸川乱歩、円谷英二、長谷川町子……それぞれの戦争体験とは? 「戦時下の表現者たち」の生き方

 小説『火垂るの墓』、『麻雀放浪記』、映画『ゴジラ』、『仁義なき戦い』、漫画『アンパンマン』……今日まで愛されるコンテンツに、作者の戦争体験が投影された作品は少なくない。戦後の文学、映画、漫画などのサブカルチャーの担い手の多くは、終戦時に幼児であった人間も含めて、何らかの形で戦争を経験していた。ある者は戦場に行き、またある者は家族と死に別れ、またある者は外地で終戦を迎えて苦難の末に帰国した……。そこには、同じ戦争体験といっても、千差万別のドラマがあった。

 終戦から80年を迎える2025年8月、リアルサウンド ブックではライター・佐藤賢二による短期集中連載「戦後サブカルチャー偉人たちの1945年」を掲載する。第二回は「戦時下の表現者たち」と題して、江戸川乱歩、円谷英二、長谷川町子の戦争体験を振り返る。

第一回:やなせたかし、笠原和夫、川内康範……それぞれの戦争体験とは? 「戦わなかった兵士たち」の葛藤

江戸川乱歩:戦争でコミュ障を脱したミステリ界の巨人

江戸川乱歩(本名・平井太郎)/小説家
・1894年10月21日〜1965年7月28日
・1945年の年齢(満年齢):51歳
・1945年当時いた場所:日本国内 福島県保原町(現在の伊達市)

「私はむろん戦争は嫌いだが、そんなことよりも、もっと強いレジスタンスが私の心中にはウヨウヨしている。例えば「なぜ神は人間を作ったか」というレジスタンスの方が、戦争や平和や左翼よりも、百倍も根本的で、百倍も強烈だ。」——江戸川乱歩の自伝『探偵小説四十年』(光文社)の一節だ。これは、1929年に発表した短編『芋虫』が、傷痍軍人の姿を陰惨に描いた内容のため、反戦を唱える左翼から絶賛されたが、同作は左翼イデオロギーによる作品ではないという説明に続けて記されている。

 明治時代の末期、三重県名張町(現在の名張市)から上京してきた乱歩は、1923年に短編『二銭銅貨』デビューし、昭和初期にはすでに流行作家だった。1936年には少年探偵団が登場する『怪人二十面相』が大ヒット。ところが、翌年には日華事変(日中戦争)が勃発する。当時、探偵小説と呼ばれていたミステリの多くは、戦時下にふさわしくない不道徳的な作品と見なされ、各出版社は刊行を自粛。乱歩作品の数々は内容に伏字を施され、『芋虫』は1939年に事実上の発禁となった。

 乱歩は探偵小説の執筆を控えて隠棲を決意。日米開戦が迫る1941年秋ごろから地域内の隣組常会に参加する。町内の付き合いをほとんどしていなかった乱歩自身、これを「従来の私からは全く想像もできなかった」と記している。1942年7月には町内会の副会長となり、みずから回覧板に防空待避所点検などの文章も書いた。のちには、大政翼賛会に属する翼賛壮年団で豊島区の事務長兼副団長まで務めている。

 そればかりか、国策に協力する作家団体の日本文学報国会に参加したことから、それまで接点がなかった探偵小説以外の文学者とも広く交友関係を持つ。まさに、戦争がコミュ障を脱する機会となったのだ。さらに、隣組や防空指導への参加を通じて夜型生活を改め、多かった喫煙量も減り、すっかり健康な生活を送るようになった。

 乱歩と軍や政府機関との関係は複雑だ。1942年中には、出版を統制する内閣情報局の代表者と乱歩ら探偵小説作家が面談し、どのような作品ならば執筆を許されるか情報官を問い詰めたが、実りのある話にはらなかった。一方では、企業家の集まりである清話会に呼ばれ、陸海軍の将官も出席するなか、暗号技術についての講演を行っている。また、海軍省の外郭団体であるくろがね会の会報に随筆を寄稿しており、軍関係の刊行物ゆえ逆説的に検閲を逃れて自由な執筆が許されていた。

 ちなみに、息子の平井隆太郎(後年に立教大学教授)は、1943年12月に海軍に入隊している。一人息子だけに乱歩は隆太郎の身を案じていたが、意外にも、軍隊の規則正しい生活に慣れて以降は入隊前より太ったと記している。

 戦時下にあって執筆依頼は激減したが、その要因は、軍や政府の命令がなくとも、出版社が娯楽作品を自主規制していたからだ。ただ、例外として国策的なスパイ物ならば許された。そこで月刊『日の出』の依頼を受け、1943年から翌年、アメリカのスパイが日本の航空技術を狙う内容の『偉大なる夢』を連載。ただ、乱歩は「科学小説」を目指したものの出来栄えに不満足で、乱歩の生前は単行本化されなかった。

 大戦末期の1945年4月には、家族を福島県保原町(現在の伊達市)に疎開させ、乱歩は一人で東京に残る。同月に受けた空襲の経験は、戦後の小説『防空壕』に反映されるが、乱歩の邸宅は戦火を逃れた。その後、栄養失調で健康を害したため、6月には自身も同じ保原町に疎開し、同地で終戦を迎えることになる。

 乱歩は「国が亡びるかというときに、たとえ戦争自体には反対でも、これを押しとどめる力がない以上は、やはり戦争に協力するのが国民の当然だと、今でも考えている」と記し、みずからの戦争協力を恥じることも後悔することもなかった。

 戦時下の乱歩の行動は単なる国家への迎合とも見なせる。だが、探偵小説界の代表としての責任感から、戦争協力を通じて、不道徳的とされた探偵小説と、角田喜久雄、木々高太郎、甲賀三郎ら数多くの同業の作家たちの社会的地位を守ろうした意志も読み取れる。ある意味では、戦争が、作家ではなく人間としての乱歩を鍛えたともいえる。

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